渋谷暗黒巡礼 Dark Pilgrimage in Shibuya

見ようとしても誰にも見えない渋谷、見えてるのに誰も見ようともしない渋谷

June 2014

渋谷と神々の黄昏 Shibuya Gotterdammerung

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渋谷には神様が意外と沢山いる。

渋谷と言えば、まず明治神宮。神南とか、神宮前とか、神宮基準の地名がつくぐらい、渋谷区のヘソ的存在なのだが、神様暦はまだ100年経っていない。古いところでは、氷川神社、金王八幡、隠田神社、ちょっと離れるが代々木八幡もある。小さな稲荷神社もいくつか、ビルの上でいまだに頑張っている。といったところで、神社やお稲荷様なら、自称歴史ある下町の方に行けば渋谷よりずっと密集しているだろう。
渋谷の神様は下町の神々に比べると若い。早い話が新興宗教が集まっている。
有名な教団では、天理教、PL教団、統一教会、生長の家が渋谷周辺に拠点を置いている。その他にも富士山信仰集団「富士講」の最大組織は、かつて道玄坂にあった。

新興宗教が集まっているのには、何か理由があるんだろう。とりあえず思いつく理由は、
・渋谷は戦前の東京の外れにあたるので、土地が安かった。
・下町に比べて、影響力のある(敵対する)神社仏閣がなかった。
・お金持ちの寄進者がいた。(松濤や常盤松あたりに)
といったようなことぐらい。もしかすると、信者になるような不幸な人が渋谷に沢山住んでいたんだろうか?渋谷には信濃町みたいに貧民窟があったわけでもないから、貧窮した人たちが信者になったのではないのだろう。幸福を金では買えなかった億万長者、あるいは落ちぶれてしまった華族とか、戦場で心を病んでしまった陸軍軍人とか、そのあたりの人が中核的信者になったのかも。

もう少し広く渋谷区内で見ると、日本ユダヤ教団のコミュニティもあるし、ドミニコ修道会の修道院や日本基督教団の教会、イスラム教のモスクもある。渋谷は宗教的グローバリズムの東の果てなのかもしれない。と考えると、渋谷を舞台にした宗教戦争SFラノベのプロットを作れそうな気もする。向かい打つのは、神社本庁(神社の統括機関。明治神宮の裏にある)。お約束通り、巫女や修道女も登場する。

朝の経済学 morning economics on the street

fool on the hill
週末朝
5時過ぎのランブリングストリートは混雑する。

前夜から乱舞しまくった男子女子が、クラブからぞろぞろ湧いてきて、路肩でぐだぐだになっている。まだ元気で路上で踊ってる人もいるし、げろげろの友達を介抱している人もいる。だいたいはただたむろしているだけ。クラブの店員に「店の前で固まらないで下さい!」と言われて渋々移動するが、今度は隣のラブホの前で滞留。あ、カップルだけは、コンビニで朝飯やら着替えやらアレやら買い込んで、仲よくコンビニ袋を持って裏通りにさっさと消えていくんだけど。

この時間帯の裏通りではどのホテルでもリネンサービス会社の人が大量の使用済みシーツを袋詰めして積み上げたり、新しいのを運びこんだりしている。入り口周りでは、清掃会社のおばあさん、おじいさんが熱心に水を撒いていたりする。朝からお疲れ様です。(カップルを含む)。

イベントが重なった翌朝は、ランブリング通りいっぱいに人があふれてしまう。そんな群衆をかき分けて、赤い空車表示を輝かしてタクシーがごりごり突っ込んでくる。お綺麗なお嬢様(意味深)がタクシーを停めて乗り込んでいく。深夜ならともかく早朝なんてタクシーの需要なんてあんまりないだろうと思っていたが、タクシー運転手はこういう穴場も良く知っているんだな。裏通りからはリネン会社の軽トラが出てくる。道玄坂からは清掃車が何台もやってくる。ついでに、路上で無許可営業中のもんじゃ焼き屋も運んでいってくれ。

5時半ぐらいになると、ぐだぐだたむろっていたグループも坂を下って東急本店通りや道玄坂に出てくる。そうなると、24時間営業のラーメン屋や朝7時までやってます系の飲食店で朝飯を食べるわけで、店はどこも結構混んでいる。この期に及んでまだカラオケ屋に突入するグループも少なくない。寿司は回転しているわ、マツモトキヨシも開いているわ、渋谷は朝から商売している(その割に、ドンキがam10時オープンというのは商機逃してんじゃ?)

円山町や道玄坂町って夜の街のイメージが強いが、実は早朝から営業している店も多い。飲食店は朝から2~3回転しているんじゃないか。百軒店にも早朝から健康マッサージをお薦めしてくれる黒服のお兄さんが立ってるし。去年、PRESIDENT Onlineで「客の財布は朝開く」(http://president.jp/articles/-/1018)って、やや意味深なタイトルの記事があったが、早朝ビジネスが流行っているのは、なにもビジネス街だけではないってことだ。

渋谷と軍需産業(戦前編) military-industry complex before WWII

old shoemaker

渋谷は軍需で発展した。

明治末期に大日本帝国陸軍の拠点が渋谷にできたことが、
渋谷の街の初期の発展を促進したと言って構わないと思う。渋谷から代々木公園にかけて広い範囲が陸軍用地として使われていた。いまでも道玄坂とマークシティーの間の裏通りには、「陸軍用地」という石碑が残っている。当時、渋谷の街中は、軍人さんが飲食交遊で落とすお金で大いに潤ったわけだが、それ以外にも、陸軍がらみの軍需ビジネスが渋谷に生まれた(というと大げさ過ぎか)。
その一つが「靴」だと思う。「軍靴の音」に象徴されるぐらい、靴の製造は軍にとって不可欠だった。日本における靴の需要拡大は、軍がけん引したとしかいいようがない。日本にホワイトカラーなる職種が生まれるまでは、靴を履いたことさえない人の方が多かっただろう。
 
靴の製造や修理を行う店も陸軍施設のそばに不可欠だっただろう。その名残がいまでも代々木八幡あたりにある。代々木八幡の駅の裏側のいりくんだ路地に、靴の製造・修理の店がいまも営業している。いまもちゃんと革から靴を作っている文字通りのshoemaker。その近所には零細靴メーカーもある。また靴の輸入・販売をやっているHitmanの本社が井の頭通りに面して建っている。いまは靴の生産はしていないが、本社の敷地は先代からのものだろう。

ちなみに、この界隈には鞄メーカーもいくつかまとまってある。日本の鞄生産も靴同様に軍用品からスタートしたものの一つ。ランドセルももともとは兵隊の背負っていた背嚢が元だし。このあたりの鞄メーカーの一つが
ときどき突然会社の前で開催されるサンプル処分セールは、掘り出し物が千円以下で見つかる(ただし、癖があるけど)。
 
ところで、日本で最初に靴製造を始めたのは、江戸時代最後の非人頭の弾左衛門だった。江戸開城後、素早く身を翻して官軍の下請け業を興すあたり、才能があったのだろう(非人頭・弾左衛門の名は世襲制ではなく、全国の非人から選出された者が継ぐローマ皇帝方式だった)。江戸時代以前は、革製品を生業とするの被差別部落民に限られていた状況を逆手にとった。当時は革を取り扱うことは穢れていると差別されていた反面、皮革産業は被差別部落の独占産業だった。(その他の差別的職業を含め、彼らには常にに雇用先があったとも言える。実際、小作農家より裕福な部落世帯は少なくなかったらしい。)皮革を染めるのに大量の水が必要だったのか、あるいは元々被差別的な場所だったせいなのかはわからないが、裏通りの靴屋もHitManビルも、宇田川の川沿いの一番低い低地にある。そのあたりはかつて「深町」というぐらい、湿地だったそうだ。裏通りの靴屋の店名が「菊」の「池」というのも、意味深に思えてくる。
 
戦前は、靴や鞄だけでなく、きっと軍服の製造・修理を行う工場も近くにあっただろうから、それが渋谷(というか原宿・青山)の服飾産業の技術基盤となったんじゃないかと個人的には思っている。もっとも、アパレル産業化には、終戦後、渋谷に駐留した米軍(GHQ)の存在がさらに大きかった。
 
陸軍による渋谷地域への経済波及効果がどのぐらいだったかわからないが、渋谷の産業が歴史的に軍需に支えられて、いまの渋谷のビジネスの基礎がつくられたのは確かだと思う。それを渋谷の黒歴史といっていいのかどうかはわからないけれど。ただ、渋谷区の小学校の教科書には載っていない話なので、表の歴史ではないのだろう。

朝のご帰宅 go back home in the early morning light

morning scramble

週末早朝の渋谷は人通りが結構多い。ほとんどは帰宅する人だけど。

5時から6時にかけてスクランブル交差点は、スクランブルと呼ぶのに十分な人が信号待ちをしている。だいたい3方向から人が駅前に集まってくる。センター街、東急本店通り、道玄坂からぞろぞろ下ってくる。通行量は多いときで1分間に80人ぐらい。昼間のキャットストリートぐらいの人通りがある。

20代あたりの人がほとんど。外国人もちらほろら。ただし、白人、アラブ系あたりの男性限定。男女比は5:2ぐらい女の子はそれなりに今風のファッションなのだけど、男の子はそれほどでもない。どちらかというと90年代のB系やスケーターみたいな恰好が多い。たまに七三にビッシと分けて、黒ぶちのウェリントンをかけた男の子がいる程度。派手な色の服をきた男の子はほどんどいない。昼間の渋谷に比べて、やけに地味目。

というようなことを元・クラブ・オーガナイザー(もしくはただの夜の遊び人)に話したら、「そりゃーそうでしょ。土日の夜に遊んでるやつらはアレだよ。土日しか来れない北関東のやつや一般の人しかいないから。気の利いた人を集めるイベントやパーティは、水曜日の夜あたりにやるからね。」と説明してくれた。どおりで皆さん、駅の方に行くのね。そういえば、高そうな車でお帰るになる人はいないな。

こんな地味目の賑わいも6時半には、すっと引いてしまって、渋谷駅から坂を登って来る人の方が多くなる。週末の朝からご苦労様です。やっぱり、額に汗して働く人は偉いなーと思う週末の朝。

道玄坂供養碑 old cenotaph

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かつて渋谷は、帝国陸軍の軍人が闊歩する街だった。

日露戦争後、渋谷に大日本帝国陸軍の関連施設が建設され、陸軍の拠点となった。
代々木(いまの代々木公園からNHKにかけて)には陸軍練兵所、そのとなりに陸軍刑務所(いまの渋谷区役所のあたり)、駒場には陸軍医学校ができた。(いまでも、渋谷のいろんな場所に「陸軍用地」の石碑が残っているそうだ。)そんなわけで、週末ともなると軍人さん達が、地元渋谷でどんちゃんどんちゃん遊んでくれたおかげで、渋谷の街は急速に発展したようなものだ。(陸軍関係の施設があったことが、戦後の渋谷界隈のビジネスや文化を方向づけた話は、後日)

渋谷の西側、世田谷辺りは陸軍の演習場に使われた。世田谷は今のような住宅地ではなく、林の広がる丘陵地だったので軍事演習に最適だったのだろう。
明治時代のことだから、軍事演習といっても歩兵が地面を這いつくばるようなものだったと思う(その後、陸軍練兵場で日本における飛行機の初飛行が行われるまでは)。陸軍の主な火力は大砲だった。しかも大砲の移動は人力で行っていた。丘陵地の舗装されていない凸凹道を大勢で押したり引いたり、相当大変な作業だったと思う。

世田谷の演習場まで大砲を運ぶには、
大山街道を進むことになるのだが、最大の難所が道玄坂。いまより急な坂だったらしい。当時、大砲を押し上げていたとき、大砲がずり落ちて、多数の軍人が下敷きになって亡くなったそうだ。その慰霊碑が道玄坂上にいまもある。ちょうど渋谷マークシティの出口脇、桜の木の下にある。桜は遺族や陸軍軍人の有志が植えたのだろう、「同期の桜」って言うぐらいだし。毎年、桜の花が咲くころ、道玄坂に似つかわしくない風景になる。もっとも、夜になると円山町を目指すカップルが桜の下をくぐって行くのだけど。

その事件後、再発防止のため道玄坂上あたりの急な部分は削られ、
いまの傾斜になったそうだ。当時としては、そのぐらい大事故だったのだろう。帝国陸軍のお膝元で起こった事故なので、軍のメンツみないなものも多少はあったのかもしれない。