渋谷暗黒巡礼 Dark Pilgrimage in Shibuya

見ようとしても誰にも見えない渋谷、見えてるのに誰も見ようともしない渋谷

September 2014

隠された田と呪いの石塔 hidden fields & the cursed stone




原宿には呪いの石塔がある。

 原宿から渋谷にかけて、渋谷川の両岸は、江戸時代は「隠田村」と呼ばれていたそうだ。いまでは地名として地図には載っていない。神宮前交差点の裏通りに「隠田商店街」としてだけ残っている(原宿キャシディーがあるあたり)。「隠田」の由来はよくわかってないようだけど、「隠された田」というのは何かの因縁というか、裏歴史が隠されていてほしいところ。(服部半蔵配下の忍者の隠れ里とか、、、と思ったら伊賀者と原宿は関係があったという説が!→追記2)

 キャットストリート(旧・渋谷川)の東側に小高い丘(といっても石段22段分)があって、そこに「隠田神社」が鎮座している。この一帯の産土神だそうだ。まさに隠田エリアの「へそ」的存在。参道は東側からのアプローチで、小さめの社殿は渋谷川を背にして建っている。境内には巨大な木が何本かあって鎮守の森だった感じがする。小ぶりの境内だけど、ほっとする空間。まさにキャットストリートの箸休め的存在(渋谷―原宿間散歩の休憩にどうぞ)。強い主張のないさりげない境内だけど、それが逆に地域とともにある産土神の宿る場所としてふさわしい感じがする。

 ひとときの憩いの場とか言っておきながら何だけど、ここに居る神様はちょっと恐い。隠田神社はもともとは「第六天社」と呼ばれていて、第六天魔王が祀られていた。第六天魔王は欲界の他化自在天に宮殿を構える自在天王。いかにも呪力が強そうなキャラ。小田信長は自分のことを好んで「第六天魔王信長」と署名していたと宣教師ルイス・フロイスが書き残している。魔王のせいかどうか知らないが、境内の端には「お百度参り」用の石塔がいまも残っている。一見穏和な神社だけど、実は隠田沼を封じるため神社だったのかなという気がしてくる。隠田神社は案外、強力なダークパワースポットなのかもしれない。

追記)
 個人的な希望としては、「帝都物語」を下敷きにして、隠田神社一帯を舞台にしたラノベを誰かに書いてしてほしい、、、大まかなプロット:徳川家康の命により、織田信長の亡骸は服部半蔵によって密かに江戸に運ばれ、隠田神社の地下に隠されていた。「隠田」とは「織田を隠す」ために選ばれた沼地のことなのだった。あるきっかけで第六天魔王と合一した信長が復活、東京は再び魔都に。強大な呪力に人は
ICTで立ち向う、、、東京オリンピックを絡めて、神宮の新スタジアムが魔王神殿と化す展開とかどうでしょう。地元IT企業や大手通信事業者のスポンサードで映画化できるかも。

追記2)
 ウィキベディアからの引用「1582年の本能寺の変の際に徳川家康を堺から三河まで無事に帰国させた「伊賀越え」の行賞として、1590年に伊賀者に隠田村とともに原宿村が与えられた、という記述もある」んだそうです。上記プロットにも、歴史的奥行が出てくるなー。映画のプロモーション画像には、第六天魔王が、渋谷駅超高層ビルを一瞬で破壊するシーンがほしいですね。

 

水の都、原宿 muddy "harajuku" waters



原宿はじゅくじゅくだった。

 昔、原宿から渋谷にかけては、かっこよく言うと低湿地、
はっきり言うと沼地だったそうだ。渋谷川沿い(いまのキャットストリート周辺)は、水が溜まって田畑に使えないぐらいぐじゅぐじゅだったらしい。どのぐらいぐちゅぐちゅだったかというと、渋谷川の水を周辺の田畑まで引けなかったぐらい。農家はわざわざ丘(今の明治神宮)の方から水を引いていたそうだ。それじゃ川が流れている意味がないだろっとつっこみたくなる。
 表参道にも大きな池があったそうだ。いまの表参道をまたいでしまうぐらいの大きさ。それを埋め立てて表参道と同潤会アパートができた。表参道ヒルズは、かつての池の淵にある。どこが「HILLS」やねん!とつっこみたくなる。埋め立て工事は大変だったようで、土地が緩くて重機がずぶずぶめり込んだそうだ。
 渋谷区役所の広場に銀色の水車があるんだけど、あれはかつて原宿界隈にあった水車のオマージュ。江戸時代には米を突くために水車がいくつもあって、北斎の「三十六景」にも登場する。戦前に「森の水車」という歌謡曲にもなっているぐらいだから、昭和初期ぐらいまで水車が残っていたのかもしれない。

 じゅにゅじゅにゅの沼地も昭和30年代にはどんどん宅地化して、
渋谷川の両岸にまでぎっちり家が並んでいた。川にはまだ蓋はされていなくて、両岸の家々から下水が垂れ流されるどぶ川状態だった。いまでもそのころの小さい木造住宅がキャットストリートに面して残っている。面しているというより、正しくはお尻を向けて建っている。かつては渋谷川側が裏だった証拠。
 蓋をして遊歩道になってからも、地元の人以外はあまり通らす、表参道からピンクドラゴンまでお店はなかったと思う。90年代に入ってからも、むしろキャットストリートの裏通りの方に伝説のショップがいくつかできた。90年代末にパタゴニアがフラッグシップショップをキャットスリートに面してオープンしてから、人の流れが徐々に変わっていった。いまのように両側べったりとお店になるなんて思わなかった。

 このあたりもすっかり青山と原宿に近い高級(?)
住宅地になってしまったけど、沼地の上なのは変わらない。裏通りには、昔は農道だったような、大型車が通れないぐらい細い道がぐねぐねしている。このまえ、50cmの抜け道も発見した。このあたりの地価が周辺に比べて割安だからといって土地を買うのは、はっきり言っておすすめしない。地震で大きく揺れる場所なので、建物を建てるには土壌改良に坪数十万円はかかるだろう。 

渋谷城 le chateau de Shibuya



 渋谷にかつて城があったらしい。

 しかも、「渋谷城」というど真ん中直球の名前。城を作ったのは、もちろん渋谷史上の英雄(?)渋谷金王丸。今は「金王八幡宮」に名前を変えて名残をとどめている。名残といっても、お城の石垣だった石が一個だけ、境内の端っこに転がしてあるだけだけれど。それももっともな話で、城といってもお堀があって天守閣があるようなお城ではない。金王丸が生きていたのは、戦国時代よりずっと前なので、 要するにそこに金王丸の屋敷があったぐらいのイメージだったんだろう。
 ちなみに渋谷には今でも城がある。城というより「シャトー」な感じだけど。明治神宮から山手線沿いに渋谷に下っていったことがある人なら、山手線の向こう側に森に囲まれた謎のシャトーが建っているにに気づいたかもしれない。ずっと気になっていて、近くまで行ってみたいと思っているのだが、いまだにお城にアクセスするルートを発見できていない。

 話しを戻すと、地元でも「渋谷」という地名は、ここに城を構えた「渋谷」一族からとったと思っている人がいるが、実のところ渋谷氏は、渋谷に来る前は川崎方面に居て「河崎氏」を名乗っていたそうだ。だから彼らが来る前から渋谷は「渋谷」だったはず。
 彼らが川崎からなぜ渋谷に来たのかは知らないが、川崎は「川の先」というぐらいだから当時は多摩川の河口付近で平坦な上に海を背にしていたから、防衛上強固な砦を築くことはできない場所だったろう。丘陵が多い渋谷あたりは、彼らからすると拠点を置くのに安心だったのかなと思う。渋谷金王丸はここで周辺の勢力と攻防戦を行っているし、渋谷事件'46ではやくざチームが金王八幡神社の境内に集結して華僑武装集団の襲撃に備えたらしい。昔から、地形的に戦略上優位なポジションを取れる場所だったんだろう。

 ところで、今日は金王八幡神社のお祭り(例大祭)だったのだが、街中にお神輿がねりねりしていて、酔っぱらいつつ踊り狂う女の子やら、ふんどしを食い込ませたおっさんの尻やら、普段の渋谷にはない下町情緒たっぷりだった。
 金王八幡宮例大祭は、それなりに渋谷の街をあげてのお祭りで、9月に入ると早々に紫の垂れ幕が通り沿いにつるされる。東急本店通りにも赤い提灯が吊り下げられ、夜から朝まで燈される。夜は一見もうお祭りが始まっているかのように見える(お祭りでなくても人通りが多いので)。
 例によって各町内会には地元企業・商店からの寄付額を記した紙が貼り出されていた。鍋島家ゆかりの松涛公園にも貼られていたのだが、森進一や藤井フミヤの名前を書いてある紙がデカデカと貼ってあった(それに大して東急百貨店はわずか伍萬円。)一方、地元の人にも知られていない円山児童公園にも協賛する企業・商店名が書かれた提灯がたくさんつるされていた。提灯の中に周辺のラブホテルの名前がけっこうあるのが、とても円山町らしかった。地元の祭りには協賛するあたりは、その昔、ラブホテルが料亭や割烹だった頃からの習慣なんだろう。


追記)
渋谷の街中、金王八幡のお祭り一色になるが、実は金王八幡の南側にある氷川神社のお祭りも同時開催される。金王八幡サイドはうちは渋谷界隈の総鎮守といっているが、氷川神社の方が古くからある。そのせいかどうかわからないが、縁日の屋台は、氷川神社の方が数がずっと多い。当日、地元の子供たちは金王八幡ではなく、氷川神社の縁日に行く。

渋谷中華街化計画 Shibuya china town plan


渋谷センター街が中華街になっていたかもしれない。

 渋谷事件の記事を読んでいたら、「えーっ!」というような話が書いてあった。1946年、終戦直後の宇田川町闇市には在日台湾人の華僑総本部があり、闇市を勢力下におさめていたようで、闇市の違法物資流通を阻止したい警察と対立が激しかった。実際、闇市を見回っていた警察官がボコボコにされてしまう事態もあったようだ。

 で、華僑総本部はついに、宇田川周辺を中華街化しようと動き出した。横浜や神戸の中華街にあるような「門」を建ててしまった。台湾人は居留地のような治外法権のエリアを東京に作りたかったんじゃないか、と思う。

 現在、中華街は横浜、神戸、長崎にあるが、一番大きいのは横浜だろう。神戸や長崎は、えっ?というぐらいこじんまりとしていて、「街」というより「横丁」ぐらいの大きさ。 渋谷中華街計画は、横浜より巨大なエリアを考えていたのかもしれない。道玄坂下から宇田川町にかけて中華街にしようとしていたらしい。道玄坂下の台湾料理「麗郷」と宇田川町の「龍の髭」はもしかすると、中華街エリアの両端に位置していたのかも。でも結局は渋谷事件で台湾人武装集団は敗退し、中華街は実現せず、闇市もクリアランスされてしまった。

 横浜、神戸、長崎には中華街と比べると、渋谷中華街計画がこけてしまったのももっともだな、と思う。
 まず歴史や人口から違う。横浜も神戸も幕末あたりから中国人が住んでいたし、長崎にいたっては17世紀から中華街があった。住んでいる中国人の数も横浜6千人、神戸1万人(現在)。長崎は江戸時代には7万人もいた。
 それに対して、台湾人はかなり遅れて日本にやってきた新参の小規模集団。その上、横浜は広東省、神戸は福建省の出身他者を中心にコミュニティが出来上がっていて、台湾人は後から入り込めなかった。で、東京に自分達の拠点をつくろうと焦っていたんだろあう。
 終戦後の状況を見ても、バックの大きさが決定的に違った。横浜は中国本土から物資が大量に入ってくる。神戸は商売の上手い福建省人が物資を調達してくる。どちらも大きな港を抱えている点が渋谷に比べて圧倒的に有利。
 地元との関係も大事だったんだと思う。商港神戸の中国人は商売上手と評価されていて、地元民との関係も良好だったそうだ。横浜の中華街は新しい埋め立て地に建設されたので、土地のことで地元と衝突しなかっただろう。一方の台湾人は地元警察と敵対していたし、突然、街中を囲って中華街にしてしまおうという勝手な計画には地元からも反発があっただろう。

 渋谷中華街計画は、歴史、人、立地、バック、地元関係とあらゆる点で三大中華街に負けている。失敗どころか、出だしで一瞬に消えてしまったのは至極当然だったんだと思う。先行する広東省人や福建省人に比べると何の強みもなかった台湾人が東京に自分達の居場所を確保するには、武装して力づくでやる方法しかなかったんだと思う。
 もし渋谷中華街計画が実現していたら、センター街はもちろん、東急ハンズやPARCO、山田電気や109もなかったかもしれない。松濤は成功した華僑の豪邸が並び、ヒカリエには台湾ITベンチャーが入居してたかも。センター街付近は国内最大の中華街として観光客で賑わったかもしれない。ということは、東急電鉄は東急東横線を中華街まで直通運転する気にはならなかったろう。