渋谷暗黒巡礼 Dark Pilgrimage in Shibuya

見ようとしても誰にも見えない渋谷、見えてるのに誰も見ようともしない渋谷

July 2016

東大薔薇刑 Nome della Rosa



日本最古の薔薇園が、渋谷にある。

場所は、京王井の頭線のトンネル出口付近。正確に言うと目黒区駒場なのだが、渋谷駅から直線距離1000mぐらいなので、渋谷圏内としておいてほしい。
このあたりに住んでいない限り、ここを通りがかることは、まずないといっていいぐらい、辺鄙というと失礼だけど、わかりにくい場所にある。駒場在住70年の方でも、生まれてこの方、ずっと存在を知らなかったぐらい。ここに10年ぐらい前までは、薔薇園が広がっていたようだ。当時は、300種3万本(!)のバラが植えられていたそうだ。開園は1911年(明治44年)だから、100年以上の歴史がある。
現在は、宅地化してバラ園の面積は縮小したが、道沿いにバラの垣根があるから、通りがかれば、すぐそれとわかる。周辺の住宅の庭や垣根にもバラの花が目立つ。ここでバラの苗を買うと、オーナーがバラの育て方も丁寧に教えてくれるからかもしれない。

駒場ばら園から見て、京王井の頭線を挟んだ向う側は、東大駒場キャンパスが広がっている。
実は、ここが駒場キャンパスになる前は、大部分が農場だった。駒場キャンパスはもともと、東大農学部の母体となった駒場農学校(1873年=明治6年開校)だった場所。駒場キャンパスだけでなく、東大リサーチキャンパス、駒場公園、駒場野公園、都立国際高校のあたりも、農学校の敷地だった。



1897年に名前が東京帝国大学農科大学に変わったが、1935年まで、キャンパスの大部分は演習・研究用の農場だった。植物園や果樹園、園芸場の他、放牧地や家畜病院もあった。農場の名残は、駒場野公園の中に残されている。
ばら園の開園は1911年だから、農科大学と人的・技術的なつながりがあった可能性はないとはいえないと思う。大学の園芸場で品種改良されたバラの苗が、バラ園に提供されていたかもしれない。多少おおげざかもしれないが、駒場は日本の近代花卉産業の発祥の地だということにしておきたい。

ところで、薔薇と言えば、思い出すマンガは「ローゼンメイデン」。ローゼンメイデンと言えば、ローゼン閣下こと麻生外務大臣。麻生外務大臣のお住まいといえば、松涛。麻生邸の庭に咲いている薔薇の中には、この薔薇園から供給された株もあるかもしれない。なにせ、徒歩5分のご近所ですから。
たぶん、ローゼンメイデンと言えば、球体関節人形を思い出す人もいると思うけど、日本における球体関節人形のメッカは、原宿だったりする。(渋谷と人形編につづく)





喧嘩上等渋谷編 Fight Club



渋谷に殴り合いのケンカができる場所ができた。

先日、例によって早朝の円山町を縦断して、道玄坂小路(平成女学院通り)に出ようと急な坂を下っていたら、いまどき希少な店舗型流行健康施設の隣に、新しい店ができていた。銀メタの閉鎖的なドアの脇に黒字にピンクの文字で"Fight Club"。場所的にもやばいところに、またやばそうな店名だな、と思って窓ガラスにへばりついて中を覗くとリングやサンドバック。どうやら格闘技のジムのようだ。


調べてみると、単なるジムではなかった。店内でお客さん同士で殴り合いできる文字通りファイト・クラブということらしい。トレーニングジムだけでなく、バーやDJブースもあり、ジムの会員でなくても、店内で飲み食いしながら、練習風景を見られる。当然、リングもあるのだが、それがなんと「金網リング」。ジムの会員はもちろん、飛び入りでも、ここで闘うことができるのが、ここの一番の売りのようだ。素人向けには、トレーナーを殴られ役にして、殴る練習もさせてくれるみたい。もちろん、素手で殴りあうのはできない。ちゃんと、ヘッドギアと巨大なグローブをつけてやるらしい。

で、ここで気になるのが、このお店は風俗営業(警察へ風営法の届出が必要な店)なのか。分かれ目は「殴り合い」が客への接待行為に当たるかどうか。
客同士の試合なら、客同士の接待(指しつ指されつ)なので、セーフかもしれないが、客とトレーナーの試合を他の客に見せる「ショウ」と捉えると、店による客への接待行為だ言えなくもない。だから、客とトレーナーの試合は、あくまでトレーニングであって、お客に見せるのが目的ではない、と言い張るしかないのでは。
ただし、以前、JKリフレ店で客にプロレスの技をかけるサービスをやっているところが、違法とされた事案があるから、客にキックやパンチを食らわせるのも、やはり客への接待行為だと指導される可能性がないとは言えないと思ったりもする。道玄坂小路(平成女学院通り)のあたりなら、ぜひ女子キックボクサーに蹴りを入れられたいというお客様も少なからずいるだろうし。

もちろん「Fight Club 428」は、そんな特殊な潜在ニーズから発想された事業ではない。事業を企画したのは、プロボクサー海彦さん。伊原道場所属。少年の頃に魔裟斗の試合を見て感動し、ストレートにこの道を目指したという格闘家。「格闘技を(やるのも観るのも)もっと気軽に楽しんでもらいたい」というストレートな想いから立案したそうだ。

だが、一番驚いたのは、この店を経営する会社の代表が、森俊介さんだったこと。

森さんは、道玄坂上に例の夜の図書館を開業した人。開業資金のクラウドファンディングで、支援者数日本新記録を打ち立て、当時かなり話題になった。
今回も資金調達の一部はクラウドファンディング。チケット購入型クラウドファウンディング(ENjiNE)で、入会金・会費3ヶ月分が無料になるプレミアチケットを販売。今年3/3、公開後2時間で目標金額が集まってしまったのも、納得。

元文学少年のビブリオマニアというイメージの森氏が、ファイトクラブを経営することになったいきさつは語られていないが、「森の図書室」が、本と人が出会うきっかけをつくりたい、というところから出発しているので、格闘技と人が出会うきっかけをつくりたいという海彦氏の志に共感したのかもしれない。それとも、単にブラピ主演の映画Fight Clubが好きだったのかもしれない。あの映画を見て、会社辞めて何かやりたくなったのかもしれないな・・・

相撲
に始まりプロレス、キックボクシングと、渋谷には200年以上の格闘技の歴史があると言ってもいいかもしれない。そういう意味では、渋谷で最初に格闘技の試合が行われたのは、渋谷氷川神社の境内ということになる。この際、渋谷における格闘技発祥の地、格闘技の神様として渋谷氷川神社をあらたにプロモートするのは、どうでしょうか。→宮司様、区長様、森社長殿

先ずは、異種格闘家による大相撲の開催かな。余興で、地元IT企業間の社員どうしの取組みをやっても盛り上がりそう。各社メタボ社員でそろい踏みとか。
ちなみに、今年、日本音楽界の記録を塗り替えたベイビーメタルもワールドツアー成功祈願の絵馬をここに奉納している。

 

運命と闘い続ける者に幸あれ。

格闘技の宮殿 Sports Palace



かつて渋谷は、プロレスのメッカだった。

渋谷大相撲は明治期に廃れてしまい、東京で大相撲と言えば、本所でやるものということになった。明治末期には本所に国技館が建設され、大相撲は屋内競技に変わってしまった。

時を経て昭和中期、その相撲界から登場した日本プロレス界の祖・力道山が、国技館のような常設会場がプロレスにも必要と考え、渋谷に3千人収容の格闘技専用ホールを建設した。
場所は、今の渋谷マークシティの裏(というか南側)。渋谷中央街(センター街ではない!)のちょうど突き当り。建物は9階建てで、3階から5階が吹き抜けのオーディトリアムになっていた。ここではプロレスやボクシングの興行が常時行われ、超満員。TV中継も行われていた。(当時、プロレス中継は、暴力的で子供に見せたくないとPTAから問題視されるぐらい、人気番組だった。)
格闘技ホール以外に、レストランやバー、キャバレーの他、当時は新ビジネスであったサウナやボウリング場も設けられた。さらにボクシングジム、ボディービルジムの他、女性専用スポーツジムまである画期的なスポーツ・コンプレックスだった。建物の上には、巨大な王冠(ネオン付き)が乗っかった文字通りのパレス(宮殿)だったようだ。

オープンは1961年。前回東京オリンピックの屋内競技場(国立代々木競技場)が渋谷に建設されることに決まったのは1962年だから、オリンピックの殿堂より先にスポーツの宮殿が渋谷にはあったことになる。
(ここから、スポーツ帝都渋谷の歴史が始まるのだが、、、それは改めて書ければ、、、)
しかし、オリンピック前年(1963年)に力道山は、暴漢に刺殺されてしまう。リキ・スポーツパレスも身売りせざるを得なくなり、プロレスホールは、巨大キャバレー(ダンスホール付?)に改装されてしまう。(建物としては、'90年代まで存続したが、いまはオフィスビルに建て替えられている。)

その後、昭和の後半戦は、渋谷と格闘技というと、ピンとこなくなってしまうのだが、昭和末期から、センター街に夜な夜な生きのいいお兄さんたちが集まり出し、やがて乱闘騒ぎが起こるようになった。後に言うチーマーの抗争である。その頃、センター街のイメージと言えば、ワイルド&バイオレンス。なんとなくストリートファイトのメッカみたいになってしまった。あの岸谷五郎最強伝説が生まれたのも、その頃だろう。
チーマーの暗躍も平成に入って暫くすると終焉。その後、カラーギャングも登場したけど、どっちかというと池袋や東京郊外の街でブイブイいわしているという印象。世紀末の渋谷というと、ギャルの街というイメージに変わってしまう。

とはいえ、いまでも格闘技関係の施設が渋谷周辺には点在している。魔裟斗を輩出したキックボクシング伊原道場は、代官山駅近くにいまもある。K-1のジムも恵比寿にある。台湾政府公認の全日本柔拳連盟本部も最近、渋谷南口にビルを新築したばかり。元関東連合の格闘家が開いたジムも代官山のあたりにあるらしい。
最近、格闘技系ジムでは渋谷最大となるジムがオープンした。いま渋谷は、海外から両腕がっつり刺青のガタイのいいお兄さんたちが多数集まってくるので、ワールドワイドにタフ&ワイルドな街になるかもしれないと思ったり。
(最新格闘技ジム詳報は、次回へ続く、、、)




 

渋谷大相撲 THE WARRIORS



江戸時代、将軍が渋谷に相撲を見に来た。

地元では、一応そういうこととになっている。
江戸の相撲は、各地の寺社の境内で開催された勧進相撲が始まり。江戸後期には本所回向院が主たる開催場所になっていったが、渋谷を含め、江戸近郊でもいくつか相撲が定期開催されていたらしい。
本所以外だったら、渋谷の相撲は見に行ってもいいかも、と将軍がいったとかいわなかったとか、というぐらいの話なので、渋谷に本当に将軍が見に来たのか怪しいところだが、江戸の街からも渋谷に見物客が集まっていたのは、本当らしい。当時、江戸郊外三大相撲の一つとして人気があったそうだ。(他の二か所は、世田谷と大井)

渋谷の相撲は、元々、渋谷氷川神社の例大祭で神事として相撲が行われていたのが、ルーツ。氷川神社の祭神はスサノオノミコトだが、荒ぶる闘神の前で相撲を催すというのは、ここの神事としてぴったりだと思う。そういう意味では、勧進相撲ルーツの江戸相撲とは、位置付けが異なるのかもしれない。いまでも、氷川神社の境内には、現役の土俵がある。

ここが寺なら山門に金剛力士像がほしいところだが、実は、神社の参道から離れたところに、ひっそりと力士像(仁王?)が祀られていることは、地元でもあまり知られていない。神社の近所、路地奥の民家門前に、俵ぐらいの大きさの花崗岩を掘り込んだ力士像が一体安置されている。
氏子の方の家なのだろうか、石像には木造の屋根がかけられて、水が供えられている。顔つきは、仁王様に似ているような気もするが、丸く出っ張ったお腹と蹲踞するポーズは相撲の力士に見える。

明治以降、渋谷では相撲の人気は途絶えてしまったが、格闘技関係は、その後も案外盛んだったんだと思う。
戦前は陸軍練兵場があった街だから、武術や格闘技ができる輩はたくさんいただろう。それが人材のベースになったかどうかはわからないが、戦後には、プロレス界の国技館と謳われた伝説の格闘技専用オーディトリアムが渋谷のど真ん中にあった。(後編に続く)