old shoemaker

渋谷は軍需で発展した。

明治末期に大日本帝国陸軍の拠点が渋谷にできたことが、
渋谷の街の初期の発展を促進したと言って構わないと思う。渋谷から代々木公園にかけて広い範囲が陸軍用地として使われていた。いまでも道玄坂とマークシティーの間の裏通りには、「陸軍用地」という石碑が残っている。当時、渋谷の街中は、軍人さんが飲食交遊で落とすお金で大いに潤ったわけだが、それ以外にも、陸軍がらみの軍需ビジネスが渋谷に生まれた(というと大げさ過ぎか)。
その一つが「靴」だと思う。「軍靴の音」に象徴されるぐらい、靴の製造は軍にとって不可欠だった。日本における靴の需要拡大は、軍がけん引したとしかいいようがない。日本にホワイトカラーなる職種が生まれるまでは、靴を履いたことさえない人の方が多かっただろう。
 
靴の製造や修理を行う店も陸軍施設のそばに不可欠だっただろう。その名残がいまでも代々木八幡あたりにある。代々木八幡の駅の裏側のいりくんだ路地に、靴の製造・修理の店がいまも営業している。いまもちゃんと革から靴を作っている文字通りのshoemaker。その近所には零細靴メーカーもある。また靴の輸入・販売をやっているHitmanの本社が井の頭通りに面して建っている。いまは靴の生産はしていないが、本社の敷地は先代からのものだろう。

ちなみに、この界隈には鞄メーカーもいくつかまとまってある。日本の鞄生産も靴同様に軍用品からスタートしたものの一つ。ランドセルももともとは兵隊の背負っていた背嚢が元だし。このあたりの鞄メーカーの一つが
ときどき突然会社の前で開催されるサンプル処分セールは、掘り出し物が千円以下で見つかる(ただし、癖があるけど)。
 
ところで、日本で最初に靴製造を始めたのは、江戸時代最後の非人頭の弾左衛門だった。江戸開城後、素早く身を翻して官軍の下請け業を興すあたり、才能があったのだろう(非人頭・弾左衛門の名は世襲制ではなく、全国の非人から選出された者が継ぐローマ皇帝方式だった)。江戸時代以前は、革製品を生業とするの被差別部落民に限られていた状況を逆手にとった。当時は革を取り扱うことは穢れていると差別されていた反面、皮革産業は被差別部落の独占産業だった。(その他の差別的職業を含め、彼らには常にに雇用先があったとも言える。実際、小作農家より裕福な部落世帯は少なくなかったらしい。)皮革を染めるのに大量の水が必要だったのか、あるいは元々被差別的な場所だったせいなのかはわからないが、裏通りの靴屋もHitManビルも、宇田川の川沿いの一番低い低地にある。そのあたりはかつて「深町」というぐらい、湿地だったそうだ。裏通りの靴屋の店名が「菊」の「池」というのも、意味深に思えてくる。
 
戦前は、靴や鞄だけでなく、きっと軍服の製造・修理を行う工場も近くにあっただろうから、それが渋谷(というか原宿・青山)の服飾産業の技術基盤となったんじゃないかと個人的には思っている。もっとも、アパレル産業化には、終戦後、渋谷に駐留した米軍(GHQ)の存在がさらに大きかった。
 
陸軍による渋谷地域への経済波及効果がどのぐらいだったかわからないが、渋谷の産業が歴史的に軍需に支えられて、いまの渋谷のビジネスの基礎がつくられたのは確かだと思う。それを渋谷の黒歴史といっていいのかどうかはわからないけれど。ただ、渋谷区の小学校の教科書には載っていない話なので、表の歴史ではないのだろう。