渋谷暗黒巡礼 Dark Pilgrimage in Shibuya

見ようとしても誰にも見えない渋谷、見えてるのに誰も見ようともしない渋谷

暗黒聖地 dark power spot in Shibuya

渋谷メガドンキホテル計画 Don Quixote Hotel de la Shibuya


ドン・キホーテの高層ホテルが渋谷にできる。

高さ130m、28階建てのタワーホテルが渋谷に建設される。完成年は不明だが、着工予定は2019年1月。開業はオリンピックに間に合わないかもしれない。
建築主はなんと、ドン・キホーテホールディングス。まだホールディングスの公式HPには、ニュースリリースされていないが、建設予定地には建築計画の公示看板が張り出されている。

メインの敷地は、百軒店の奥というか、道玄坂小路(地元通称、平成女学院小路)の台湾料理店「麗郷」の裏の坂を上がった高台。アニメ「バケモノの子」で熊徹の家があったあたり。周辺の土地も含めて一体開発される予定。

敷地面積5,737㎡、延床面積41,800㎡、28階建てと、周辺のラブホや雑居ビルを圧倒する規模の開発。延床面積がマークシティのエクセルホテル東急(408室、25階建て)の倍あるから、余裕で渋谷最大級のホテルが建設可能。

渋谷駅周辺では延床面積数十万㎡の大規模開発が進んでいるが、ラッキーなことに大規模なホテルは建設されない。渋谷駅南区(渋谷川沿い)の開発の中で、180室のホテルが計画されているだけ。渋谷のホテル計画は、他にもあるが、数十室程度の小規模な計画が4つ(公園通り、並木橋、北谷公園、神泉)で、中規模なものが宮下公園の200室級ホテルだけ。将来的にも、セルリアンタワー東急ホテル(411室)が、渋谷最大のホテルの地位をキープする予定だったのだが、メガ・ドンキホテルがそれを上回るかもしれない。

ドン・キホーテはすでにホテル関連事業には参入済みで、東京と大阪に宿泊・物販一体型のホテルを開業している。(ホテルの事業形態や土地建物所有などは未確認。)インバウンド需要の取り込みという点で、ホテル事業とはダイレクトなシナジーがあるので、当然の事業戦略とは思うが、渋谷には今年メガドンキが開店したところなので、物販一体型というよりも宿泊がメインになるのでは。先行2ホテル(客室数196室、172室)の倍以上の規模の開発計画にドン・キホーテの気合を感じるが、まだ報知しないのは、なぜだろう?(ニトリの渋谷店出店も、ニュースリリースより、入居ビルの改装工事標識の方が先だった。。。)開業時期を見極めようとしているところなのかもしれない。

ところで、渋谷ドン・キホーテホテルの建設予定地が、これまた曰く因縁のある場所だったりする。
バブル期まで、そこには木造の旅館「聚楽」が立っていた。バブル末期頃には、閉店して駐車場になってしまったが、その後、四半世紀に渡り何も建設される気配がなかった。見晴らしのよい高台なので、ビルを建てれば渋谷の夜景が楽しめるだろうと思ったが、裏通り(それもラブホや風俗店が軒を連ねている)にしか接していないのが、難点だった(ラブホ以外の用途を思いつかなかった、、、)。

3年ほど前、渋谷区の都市整備課の人から聚楽跡地の開発が動き出すと聞いたが、その頃にはドン・キホーテが開発する意向が区に表明されていたのだろう。そういえば、ヤマダ電機裏口前の雑居ビルが更地になったのも、そのころだった。旧ドン・キホーテ渋谷店のビルも取り壊されて、ホテル開発の敷地になるようだ。旧渋谷店の裏には、渋谷店の事務所兼倉庫だったビルもあり、そこも敷地になる。もしかすると、渋谷店出店時から「聚楽」跡地買収を見据えていたのかもしれない。東急本店通りまで一体の敷地にして開発できるなら、「聚楽」跡地は渋谷の中では、なかなか他にない好立地だったし。

こうなると、ホテル事業者(運営)がどこになるのかが気になるところだけど、外資の高級ホテルじゃない方が嬉しい。松濤の高級住宅街と道玄坂の風俗街が隣接しているという極端な狭域多様性は、世界的に見てもレアな渋谷の特性だと思うので、MEGAドン・キホーテ的な無国籍なカオス感のあるホテルになることを期待してます。

その後、入ってきた地元情報によると、28階高層ビルの11階より上がホテルになり、中低層部はオフィスと商業施設にする計画だそうだ。単純に計算すると客室数400室ぐらいのホテルになりそう。
ホテルは、渋谷には少ないビジネスホテルクラスを考えているらしい。去年、キャットストリート付近に開業したTRUNK HOTELはスタンダートツインで1泊4万円台後半、今年、公園通りに開業するhotel koeも3万円台後半と、比較的高め設定。どちらのホテルも結婚式ニーズ狙いなので、メガドンキホテルと直接の競合はなさそう。



 

渋谷テロリズム(ライブハウス編) Chelsea Hotel Shibuya


かつて渋谷で、ライブ観客が無差別に殺されそうになった。

幸い、大量殺人は未遂に終わったが、タイミングがちょっと遅れていたら、英国マンチェスターのコンサート会場テロ並みに惨いことになっていた。

事件は東急ハンズの向かい側のビルB1にあるライブハウス「Chelsea Hotel」で2011831日に起こった。催涙ガス噴射とか、放火未遂とか、そういうワードで報道されたので、一般的には「観客は災難だったねー」程度の事件として記憶されているような気がするが、実際は、大量殺戮寸前のかなり緊迫した状況だったらしい。(詳しくは、犯人に催涙スプレーを噴射されながらも怯まず取り押さえたガッツのある支配人(店長)の手記で

犯人はガソリン10リットルを持ち込んでおり、催涙スプレーを噴射しまくっていたときには、店内にガソリン臭が充満していた。取り押さえるタイミングがちょっと遅かったら、一瞬で火の海になっていたかもしれない。その上、犯人は出刃包丁も持ち込んでいたから、先日のロンドン橋の切りつけテロみないな展開になっていたかもしれない。
英国のテロ事件は、日本から見ていると、今のところ彼岸の出来事のようだけれど、同じような凶行は、東京でも簡単に出来てしまうということをこの事件は、教えてくれていると思う。海外からテロリストが来日したとして、外国人観光客にまぎれて、どこにでも出入りしやすい渋谷は、狙われやすい街だと思う。テロリストは世界的なニュースにしたいだろうから、世界的に知られている街の方がいいだろうし。

ナイスファイト支配人のおかげで、武勇伝の刻まれたライブハウスChelsea Hotelは、今でも繁盛している。実は、Chelsea Hotelのオーナーは、「奥シブ」のへそ「宇田川カフェ」や山羊のいる「桜ヶ丘カフェ」も経営する人で、そもそもは音楽レーベルや音楽プロダクションの経営から始めたらしい。事件発生の報告を当の支配人から受けた直後に本人が書いたブログがまだ残っている。
ご本人いわく

『私の著書「UDAGAWA CAFE BOOK」にも、この「チェルシーホテル」が出来上がった時、新しい内装が嫌で「一度店を燃やせ。」といったことがある。と書いているが、お客さんのいるところでは燃やしてはいけない。』
いや、お客さんがいなくても、お店を燃やしてはいけないでしょ。

そういえば、渋谷Loftの裏手にあったFake Tokyoが最近、宇田川カフェに模様替えした。元の宇田川カフェがビル建て替えで閉店して、あそこに移転したらしい。
宇田川カフェSuiteの方は、外壁が落書きだらけChelsea Hotelステッカーだらけ。それを放置しているのは、オーナーの「ピカピカの新装」嫌いが理由なのかもしれない。Loft裏のカフェは、まだ新品状態だけど、どうやって「味出し」するんだろう。もし放火されたら、第一の容疑者はオーナーかも。





渋谷テロリズム(火達磨編) San Lorenzo Martire


渋谷の路上で人が生きたまま燃き殺されたことがある。

しかも周りには大勢の人が取り囲んでいたという。46年前のことだが、まるで中世の魔女狩りだ。

先日、渋谷暴動事件で指名手配されている元過激派の大坂容疑者と思われる人物が広島で逮捕された。渋谷暴動事件は、過激派の学生が渋谷で大暴れして交番でもぶっ壊したぐらいに、それまで思っていたが、そんな程度の「暴動」ではなかったようだ。フランス大統領選中の5月、パリで起こった暴動と同じぐらい過激に、デモ学生と警察が衝突を起こした事件だったらしい。

その暴動の最たるものが、大坂容疑者が関係した警察官殺害。その殺し方が酷い。

『中村警部補の警備部隊は神山町でデモ隊と遭遇。大群衆に押され、部隊は後退し、数人が逃げ遅れた。路上に倒れた中村警部補には暴徒が群がり、鉄パイプでめった打ちに。そして、複数の火炎瓶が投げつけられ、激しい火の手が上がった。中村警部補は病院に搬送されたが、大やけどを負っており翌15日に亡くなった。(産経ニュース2016.11.24 )』

滅多打ちにして動けなくなったところに、ガソリンをかけてから、大坂容疑者が火炎瓶を投げつけたという記録もある。遺体は半分炭化していららしい。非道さはテロ以上。5月のパリ暴動でも火炎瓶で機動隊員が火だるまになったが、動ける状態だったので命は助かっている。
当時、現場には、デモに参加した学生たちもいたし、取材にマスコミも集まっていた。なのに、生きたまま人が燃えているのを、ただ傍観、というか記者もひたすらカメラで撮影していた、というところがもっと恐い。(戦中世代は、人が燃えているのなんて、見慣れていたということ?)

もう一つ驚いたのは、事件が起こったのが、渋谷駅前交番付近なんかではなく、松濤の高級住宅地に接する神山通りだったこと。今は、ちょうどこの辺から「オクシブ」と呼ぶようになる。

事件現場には、殉職した中村警部補の慰霊碑が建てられている。統一教会の筋向いの古いお米屋さんの脇。慰霊碑の場所はお米屋さんが提供したそうだ。ストリートビューでも、良く見るとちゃんと写っている。小さな小さな慰霊碑なので、十年以上毎週前を通っていたのに気が付かなくて、本当に申し訳ありません。。。
こんな平和な住宅地で大暴れして火まで放つって、本来のデモのの目的とはまったく関係ないし、結局、社会を何も変えられていないし、デモ学生は、はなから単に暴れたかったとしか思えない。当時、全国でこんな風に暴れていた学生達は、今は会社という拘束具から放たれ、年金で自由に暮らしている。暇になったからといって、また学生の頃みたいに共謀して、首都高を集団逆走とか、団体バスで通学の列に突っ込むとか、絶対にやめてほしい。

ところで、暴動現場から安倍首相のご自宅マンションまでは、歩いて10分程のところ。周辺住民からは、テロの標的になるから、ちゃんと永田町の官邸の方に住んでいただきたいという声が上がっているが、相変わらず、あそこにお住まい。地元では、官邸に住みたくないから共謀罪の成立を急いでいる説を唱える人も。





円山町の地獄太夫 Pretty Woman


20
年前の319日、神泉駅直近の木造アパートで女性の他殺死体が発見された。

殺害は38日深夜から翌9日未明。アパートの部屋に死体が10日間放置されていた。死体発見から2か月後、容疑者として不法滞在外国人が逮捕されたが、一貫して無罪を主張。事件から15年後の2012年に無罪が確定した。
この事件は、後に「東電OL殺人事件」と呼ばれ、大きく報道された。ジャーナリスト(自称含む)や社会学者、心理学者の興味を相当にそそったらしく、この事件に関する雑誌記事や書籍もいくつも書かれ、世紀末東京を象徴する殺人事件として、あるいは渋谷の黒歴史として、言い伝えられている。

当時、ランブリングストリートを軸に徐々にイメージ刷新しつつあった円山町の印象を以前より悪化させたかもしれない。郊外の住宅地で起きた殺人事件では、閑静な住宅街や平凡な家庭との対比が犯人の狂気を感じさせるが、この事件では、殺された女性がこんな場所でそんなことをやっていたという意外性の方が狂気を感じさせ、この場所で殺人事件が起ったのは、むしろ当然と思わせるところがあった。殺された女性が客引きをしていたのが、口紅を付けた地蔵として知られる「道玄坂地蔵」の前だったとか、事件現場付近は、その昔、人骨が多数発掘されたため「地獄谷」と呼ばれた場所だったといったとか、過去からの呪いというか、地域的な因縁を感じさせずにはおかないものがある。

20年経って、現場付近は当時の面影もない、、、と書かれる殺人現場の方が多いだろうが、この事件の現場となったアパートは、渋谷の街中にありながら、当時と同じ状態で今も存在している。その上、アパートの部屋も何事もなかったかのように、ちゃんと貸し出されている。部屋のドアには、今は暗証番号キー付のノブが取り付けられており、ときおり人(実際に見かけたのは欧米系外国人だった)が出入りしている。

実は、このアパートのオーナーは、近所のネパールレストラン経営者。元々は、殺された女性に「営業用」として部屋を貸していてたし、容疑者男性の仲間である不法滞在者にも、その部屋を貸そうとしていたらしい。20年前から借り手の出自や事情は一切問わないダイバーシティ経営を続けているとは、さすが渋谷、と言っていいのかもしれない。
容疑者が仲間の不法滞在者といっしょに隠れ住んでいたのは、そのアパートの隣のビルだったのだが、こちらもいまだ健在。いや、健在というより益々老朽化して、さらに怪しさが増している。1階はラーメン屋やブティックなので、それほどの怪しさではないが、2階より上は、何に使われているのかよくわからない。以前は屋上に外国人が集まってパーティーで大騒ぎ(怪しいハーブが使われたかは不明)なんていうこともあった。

この殺人事件の真犯人は、いまも謎のままだ。事件当時の法律では、15年後の2012年に時効が成立するはずだったが、2010年の法改正によって強盗殺人の時効が撤廃されてしまった。とういうことは、捜査は続けらえているのかもしれない。
以前、円山町を散歩していたら、殺人現場はどこか道を訊かれたことがある。いま思い返すと、あれは2012年だから、容疑者の無罪が確定し、この事件が再びニュース報道された年。今年は、事件後20年目ということで、記事になるか、迷宮入り事件特番になるかもしれない。
地元商店会や町内会は、事件の記憶を封殺したいところだと思うが、今の時代、それは不可能だから、むしろ今はもうあんな事件は起こらない町になったことを示せるといいのだけれど... 実際、いまでは円山町ホテル街は、渋谷の中でも監視カメラの設置台数が多いエリア(*)になった。東電OLの立っていた道玄坂地蔵にも監視カメラが設置され、夜中に立っている女の人もいない。ただ、あの辺りに「デリバリー」されてくる女の人は、当時よりも増えているかもしれない。


*:そのせいか、落書きやシールも減っている。逆に円山町南部のホテル街ではないエリアの落書き(グラフィティ)が近年急増している。


 

円山町の地獄谷 Beyond Hell Valley


かつて渋谷に地獄谷と呼ばれた場所があった。

地獄谷と言えば、世界的には、bathing apesで有名な長野県の地獄谷温泉ということになるが、渋谷にも、地獄谷と呼ばれた場所がその昔あったそうだ。
神泉駅付近から栄通りに向けて、急な斜面に挟まれた谷間がある。渋谷付近では地下を通っている京王井の頭線が神泉駅の手前で一瞬地上に出るので、その辺りが谷になっているのがよくわかる。江戸初期には、この谷間を地獄谷と呼んでいたらしい。
谷の斜面は(建物で見えないが)、高さ数メートルの崖地なので、こけたら血まみれになりそうに急な階段がいくつもある。この崖地がラブホ街の自然の結界になっていて、谷を渡ると、風景は神泉の住宅街に一変してしまう。
谷底の道路の下は、いまは下水道になっているが、昭和中期はドブ川が流れていたようだ。水の流れの源は、かつては神泉苑の湧水だったと思われる。この流れは、栄通りの下あたりで、松濤公園の池(湧水)からの水路と合流し、東急百貨店本店の下を通って宇田川(遊歩道)に流れ込んでいる。つまり、神泉苑と松濤公園は、宇田川水系の水源の一つ。

これだけだと、地獄的要素はぜんぜんないのだが、実は、江戸初期にここに稲荷神社を建立しようと、地面を掘ったら人骨が沢山出てきたそうだ。それ以来、「地獄谷」と呼ばれるようになったらしい。「地獄橋」という名前の橋も、谷川にかかっていたそうだ。
多量の人骨が埋まっていた理由は、いろいろ推察されているが、あの辺りは、中世の頃、周辺住民の埋葬場所というか、遺体処分場だったそうだ。当時は、一般庶民には代々の墓を作る風習がまだ広がっておらず、京の都でも、庶民の遺体は、都周辺の河原や野山に葬られていたらしい。庶民は土葬が主流の時代だが、仮に火葬だったとしても、当時の火力だと現在のように骨まで灰になることはなかっただろう。

こういう場所は、他にもあったんだと思う。
丘陵地の谷合、水の流れ近くに火葬場ある地域は、いまでも全国でみられる。京阪神では、地域的な歴史や因習との関係で、そういった谷合に火葬場、霊園、公営住宅が設けられていたりする。(古い神社がなぜか近くにあるのは、関西の暗黒史を垣間見る感じ。。。)
渋谷区内の火葬場、西原斎場も、丘陵地の谷合近くにある。地形的にも神泉によく似ていて、ちょうど火葬場の裏手の池が宇田川の水源(湧水)になっている。水の流れは、住宅街の坂を駆け下り、宇田川遊歩道へとつながっている。
同じ宇田川の水源で、その上、地獄谷とまで呼ばれていた神泉の方が火葬場にならずに済んだのは、大山街道が通っていて、江戸時代には、ある程度人通りがある場所になっていたからだろう。
しかし、火葬場にはならずに済んだものの、地獄谷の名に相応しい呪われた事件が、前世紀末に起こったのだった。(後編につづく)




妖婦と地霊 Erdgeist 2006



ちょうど10年前の12/28、下半身だけの死体が宇田川遊歩道脇に捨てられていた。

この殺人事件は、後に「新宿・渋谷エリート殺人事件」としてマスコミに大きく取り上げられ、その裁判までも注目を集めた。殺されたのは外資系企業に勤める30歳男性。犯人はその年上妻。殺害現場は、二人の自宅。代々木公園のすぐ近く、井の頭通りに面した新しいマンションだった。
死体の上半身が200612/16に西新宿で発見された。遅れて12/28に下半身が富ヶ谷の深町交番付近の空き家の庭で発見される。翌2007年、1/10に犯人は逮捕された。その後、死体の頭部は発見されたが、両手首は見つかっていない。
下半身の遺棄場所は、阿部首相の自宅もすぐ近く。坂を下って約4分という距離。そういうと高級住宅街のような感じがするが、同じ富ヶ谷1丁目でも、神山通りより西側(高台側)と東側(宇田川遊歩道周辺)では、地価はかなり違う。宇田川遊歩道沿いは、もともと地盤が弱く、大きな邸宅はない。2010年の地震でも、現場の23軒隣のアパートの土台がひび割れ、斜めに傾いた。
現場周辺エリアは、昔「深町」と呼ばれており、いまも交番や祭りの神輿に名前を残している。このあたりが、底なしの沼田だったことが、その町名の由来というぐらい、ずぶずぶの低湿地だったらしい。

犯人は、頭や上半身はタクシーや電車で自宅から離れた場所に運んでいるが、下半身は運ぶのに疲れて近所に捨てたらしい。計画的にあの場所を選んだわけではなさそうだが、地形的にじめっとした、風水的に陰にこもった、あの場所に捨てたのは、なんとも的確だったと思う。ゲニウス・ロキというか、なんというか、常軌を逸した極限の精神状態になると、人は無意識にそういう場所の匂いを嗅ぎ付けられるのかもしれないと思いたくなる。

現在、死体遺棄現場となった民家は取り壊され、雑草が生い茂っている。門とブロック塀は残されているが、残された倉庫と隣の家の壁には、落書き(グラフティ)がデカデカと描かれている。転売される気配も、建替えられる様子もない。
一方、殺人現場となった犯人と被害者の自宅マンションは、いまもきれいなままだ。「両手首のない幽霊が出る」といった噂は聞いたことはないが、その部屋をAirbnbで貸し出したら、亡霊好きのイギリス人が殺到するかも。代々木公園近いし、原宿、渋谷にも歩いていけるし。

実は、渋谷には殺人現場を貸し出しているアパートがあったりする。







渋谷VRアニメタウン化プロジェクト2024 STAND ALONE COMPLEX



数の上では、原宿界隈に集中なのだが、渋谷にもアニメ関係のショップが最近開店している。

渋谷マルイには、2015年4月改装時に8階にキャラクターステーションが初の実店舗で出店(以前はECのみ)。2016年4月には、プロダクションI.Gオフィシャルストアが7階に出店。プロダクションI.Gは、タツノコプロから分離独立した会社なので、本社は三鷹にあるが、攻殻機動隊を製作したことで事業拡大した会社だけに、渋谷は同社にとって特別に思入れのある街なんだと思う(笑い男!)。マルイに出店する以前から、渋谷パルコで展覧会や期間限定ショップなどのイベントをやっていた。2016年9月には、渋谷パルコにあったナムコのキャラポップストアも渋谷マルイに移転。その結果、渋谷マルイの7階、8階の大部分がアニメ系になってしまった。 
また渋谷modi(旧マルイシティ渋谷)のHMVブックスでは、今年9月にコミック・アニメコーナーを7階に拡張移転。イベントスペースも併設して、早速握手会のようなのをやっていた。

ちゃんと数えていないが、渋谷を舞台にしたアニメやゲームの方が、秋葉原を舞台にした作品よりずっと多いように思う。アニメ聖地マップを見ると、聖地登録数では、秋葉原に負けているが、作品数は渋谷の圧勝のようだ。だから、二次元渋谷に登場したキャラクターの商品が、リアル渋谷で売っているのは、自然な気がする。別にアニメ系ショップを別に秋葉原独占にしておかなくてもいい。
道玄坂には、バブル期に金にまかせて設置された意義不明芸術作品(パブリックアート)がいくつもそのままになっている。そんな渋谷に何の縁もゆかりもないゲージツはオークションにでもかけて、かわりにバーチャル渋谷で活躍したキャラクターの実物大フィギュアを設置した方が、観光・集客上、街のためになると思う。桜新町境港市だってがんばってるし。

いや、せっかく渋谷なんだからもう一歩前進して、VRを駆使するのもいいかも。TSUTAYA(Qフロント)とプロダクションI.Gが組んだら、2024年2月3日スクランブル交差点で、リアル「笑い男事件」をイベント化できるはず。ポストオリンピックのイベントとしても、いいかも。




 

原宿アニメタウン化陰謀説 Solid State Survivor




いつのまにか、原宿にアニメ関係の店が増殖していた。

原宿竹下通りあたりは、クールジャパン・カワイイ部門を牽引しているのは、メディアでもよく紹介されているし、キディーランドを始め「かわいいキャラクター」関係のお店は常にあった。だから、アニメでも小さいお友達向けキャラクター・ショップができるのは、理解できる。だけど、最近、なぜ原宿に?と思うようなアニメのショップも登場している。

・ ラスカル →わかる
・ ぼのぼの →まぁわかる。
・ プリパラ →女の子向けね
・ ワンピース →男の子向けかな。
・ ハイキュー!! →ん?
・ おそまつさん →んん?
・ スタミュ →んんん?
・ ラブライブ →大きいお友達も来るの?

キディーランド1階は、昔から新しいキャラクター商品の登竜門だけど、表参道東急プラザでも、アニメの期間限定ショップをよくやるようになった。
竹下通りには、スノーボードとアニメグッズを扱う謎のハイブリッドショップ「B★ポイント」がある。人気作品からスポ根BL系まで幅広いアニメ関連商品を入荷しているし、アニメとコラボしたスノーボード(痛板?)も販売中。意外な組み合わせな感じがするが、スケートボードでは20年前からアニメ風な絵(当時、海外ではHENTAIと呼ばれていた)を載っけた板があったぐらいだから、スノボでも意外とニーズがあるデザインなのかもしれない。

竹下通り裏の元ニコニコ動画本社ビルは、昨夏からアニメ・ゲーム・コミックとコラボした2.5次元ファッション・ショップ「2.5SPINNS」に変わっている。京都のティーン向けアパレル会社のクール・ジャパン新業態(竹下通りには通常のアパレル店舗も進出済み)。コラボ用にカフェも経営。本体アパレルの路線なのか、ここは、カワイイ系キャラクターがメインみたい(クレしん除く!)。

ラフォーレ原宿にもアニメショップが出店した。B1にできた「Hybrid Mind Market(HMM)」。店は地下なのだが、1階の明治通りに面してデカデカとアニメのポスター(大きさ的には壁画)が貼ってあるので、ラフォーレ前の雰囲気が少し変わったような気がする。ここは場所的にも、アパレルブランドとのコラボ商品企画ができるのが強みなのだが、まだ打ち出しは弱いかな。打倒COSPAぐらいの気合いを入れてほしいところ。

竹下通り裏には、声優の専門学校もある。国産ギターメーカーのESPが設立した音楽系専門学校からダンスと声優の学科が独立して、2005年春に「原宿パフォーマンスビレッジ」として開校。2013年春から、なぜか「ESPアニメーション声優専門学校」に校名変更。時期的には男性声優のアイドル化現象が一般メディア上でも確認できるようになったのと重なっている気がする。(ダンス学科の方は、どうなったんだろう?むしろ秋葉原の方がダンスが熱いのか?)
何かの専門学校があるというのは、その街の特性にそれなりに影響する。その分野に関心の高い人(学生、講師≒アニメ業界人)が毎日来る。しかも毎年、学生が入学してくるし、その街に何年か通ったOB/OGが毎年増えていく。声優専門学校が、原宿のアニメタウン化傾向の原因だとは思わないが、少なくとも集客や人材のベースにはなっていると思う。

ところで、疑問なのは、アニメ関連のグッズ販売に、なぜリアルの場が必要なのか。
キャラクター商品は、ネット販売にとても適している商材なのに。 小さいお友達向けキャラクター商品なら、実際に手に取ってみることができる場所が必要なのは、わかる。大きい子向けに、それもどちらかというとインドア派が多いと思われるのに、リアル空間に店舗を作るのか? これはアニメ業界側のニーズではなくて、店舗(商業施設)側のニーズなのかもしれない。どちらかというと人を屋外(街やお店)に引きずり出すために、アニメを利用している感じが強い。効果の大きさや範囲は違うが、ベースの部分では、ポケモンGOと同じ役割を期待されているのでは。
(後編、S.A.Cに続く)





渋谷フィギュア伝説(後編) BOUNTY HUNTER



90年代後半、渋谷はフィギュア購入層を新たな方向に広げた。

1995
年に裏原宿(死語)にバウンティー・ハンターが開店。文化服装学園でUNDER COVERのデザイナーの1年先輩だったひかるさんが開業したパンクロック系ファッション雑貨店だったが、オリジナルのフィギュアを出したら大ヒット。その後もオリジナルフィギュアは販売即日完売が続いた。ストリート・ファッションからフィギュアへのアプローチの代表例。悪い子向けフィギュアという新ジャンルを確立したことは、玩具史上特筆もの。

1996
年にメディコム・トイが設立され、直営店「プロジェクト1/6」が渋谷無国籍通りに開店した。(その後、現在の神山通りに移転)社長の赤司さんは、渋谷育ちで、原宿キディーランドがその原点。渋谷のIT企業に勤務しながら無理やりトイ事業部を起業(それ以前に、個人的にトイショップを恵比寿に開店している)。まさに渋谷からフィギュアへのアプローチ。設立当初は昭和日本特撮モノのアクションフィギュアでブレイク。2000年にキューブリック、2001年にベアブリックをリリースし、国際的ヒット。フィギュアにおける「1枚だけ来てもおしゃれなTシャツ」的存在を生み出した功績は、業界史に残ると思う。
創立20周年の今年6月には、新店舗が表参道ヒルズ開店。余りの混雑にオープン当初は、数日間入場制限が続いた。東京ソラマチにも出店しているが、観光客を呼び込めるキーテナントという位置付けなんだろうな。

世紀末当時は、ストリート系のフィギュアは、集めていてもオタクとは思われない(つまり、リア充の趣味の範疇)ということに(表向きは)なっていた。実際のところは、オタクの殿堂まんだらげのフィギュアコーナーに「裏原系」という分類があったぐらいだから、ヲタク受けもしていたんだと思う。
そして今世紀に入り、スターウォーズシリーズの再開、スパイダーマンの映画化も手伝って、フィギュアショップ開業にも新しい動きが起った。

2002
年に原宿(明治通り沿い)にUSキャラクタートイの専門店「ブリスター」が開店。2005年には渋谷(公園通り沿い)のビル3フロアを使って拡大移転。USに限定せず内外のキャラクター全般を扱うキャラクターメガストアを目指した。品揃えが広く浅くなってコアな客層に逃げられたのか、ビルの賃料に耐えかねたのか、(そのために)他店より高めの価格設定とシツコイ(圧迫?)接客が祟ったのか、2008年に原宿(旧裏原)へ再移転したが、2010年には敢え無く浜町へ縮小移転(通販メイン)。2013年に秋葉原中心部に移転し現在に至る。
渋谷からブリスターが撤退した当時、渋谷はもはやサブカルの街でなくなったのでは、と心配する声もあったが、そうはならなかったなかった。

2011
年には、香港のフィギュアメーカー「ホットトイズ」のフラッグシップショップ「トイ・サピエンス」が原宿(奥原?)オープン。開店時の取材に対し、香港本社のチャン社長は「東京はアジアのトイ・フィギュアビジネスでも重要な場所。」とヨイショしていたが、日本法人のデュボア社長は「(原宿は)フィギュアカルチャーの発信地でもあるが、最近は停滞してきているので、当店から21世紀のフィギュア文化を発信できれば」と鋭い指摘もあった。

フィギュア業界は、ベースになるコミックや映画のヒット作が供給されないと新商品展開も滞ってしまう。しかし現在、アメコミの映画化が2020年までに30本近く予定(公開中を含めマーベル系20本、DC系8本、他にも企画あり)されているので、アメコミ系のフィギュアに関しては、当面は新作リリースに事欠かないだろう。その上、STAR WARSもまだ続くし。。。どっちかというとコレクターの方が大変になるかもしれない(貯金しとけよー) 。
今年(2016年)5月には、トイ・サピエンス内に「MARVEL 原宿ポップアップストア」が限定オープン。6月には、マーベルコミックスのファンサイト「Marvel Database(マーベル・データベース)」の日本版開設を記念して、渋谷ヒカリエにファンのリアル・コミュニティースペース「MARVEL FANS CONNECT」が期間限定オープン。結局なんだかんだで、アメコミ側も、(秋葉原や池袋でなくて)渋谷方面への攻勢を強めている。

一方、フィギュアの隣接分野であるキャラクター商品でも、昨年あたりから、渋谷・原宿でいろいろ動きがあるようだ。(番外編につづく・・・)





 

渋谷フィギュア伝説(前編) Monster Japan



渋谷周辺は、フィギュア専門店が意外と集まっている。

原宿の人形館の主スーパー・ドルフィーは、「ドール・フィギュア」という中間的位置付けなのだが、いわゆる「フィギュア」を扱うショップも渋谷周辺にはそれなりにある。フィギュアというと秋葉原あたりで売っているイメージがあるが、渋谷周辺のショップは、非アキバ系というか、ある意味渋谷的というか、ある種の共通性がある。何を三次元化したかでフィギュアを分けるとするなら、渋谷周辺のフィギュアショップは、日本のマンガ・アニメのキャラクターを主力にしていないのが共通点。そっち系のフィギュアを扱っているのは、まんだらげ渋谷店ぐらい。

渋谷周辺にフィギュアショップが成立するようになった背景は、USA古着屋が集まっていたことだと思う。

USA古着を取り扱うユーズド・ショップが、原宿に1970年代からできはじめ、店頭には、ちょっとした小物としてアメコミ関連のトイ・フィギュアも並んでいた。ミッドセンチュリーのキャラものもは定番で、古典カートゥーンのミッキーやベティ・ブーブはもちろん、アメコミ系のバッドマンやスパイダーマンのフィギュアもよく飾られていた。当時から営業を続けている老舗古着店「banana boart」の外壁には、レトロタッチなスパイダーマンのペイントが今も残っている。
90年代には渋谷界隈には相当な数のユーズドショップがあった。古着好きが集まるエリアだったから、おのず、アメコミ関係のフィギュアのニーズもあったんだと思う。

USA
古着屋が原宿にできはじめたのと同時期、1975年に恵比寿にUSトイ・フィギュアを扱うホビーショップ「ミスタークラフト」がオープンしている。ビルの1階から5階まで、おもちゃやプラモデルで埋め尽くされた大型店(もしかすると原宿キディランドより広い?)であったが、残念ながら2008年に倒産し閉店

1992年には、ミスタークラフトの近所にUSトイ・フィギュアの専門店「モンスタージャパン」が開業。こちらは、現在も同所で元気に営業中。
90年代半ばには、インポートトイ・ショップ「フリップフロップ」も恵比寿に開店。この店は、渋谷のフィキュア・メーカー「メディコム・トイ」(後述)の赤司社長が、同社設立以前に、会社に勤務する傍ら個人的に開業していた伝説のお店(その当時の店の常連さんが、後にメディコム・トイの中枢メンバーになった。)。
これらの店と関係があったのかどうかわからないが、2003年まで恵比寿では、アンティークトイの即売会「エビス・トイ・バザー」が年3回開かれていた。

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年代の恵比寿は、実はインポート系トイの聖地だったのかもしれない。当時、ミスター・クラフトにもちょくちょく行っていたが、ぜんぜん気付かなかったけど。(ちなみに、コップのふち子のメーカーで知られる奇譚クラブ2012年に恵比寿に本社を移転している。)
その後、90年代後半には、渋谷周辺ではフィギュア購入層が新たな方向へと広がっていく。。。(後編に続く)