渋谷暗黒巡礼 Dark Pilgrimage in Shibuya

見ようとしても誰にも見えない渋谷、見えてるのに誰も見ようともしない渋谷

日常的渋谷 a daily life truth in Shibuya

渋谷メガドンキホテル計画 Don Quixote Hotel de la Shibuya


ドン・キホーテの高層ホテルが渋谷にできる。

高さ130m、28階建てのタワーホテルが渋谷に建設される。完成年は不明だが、着工予定は2019年1月。開業はオリンピックに間に合わないかもしれない。
建築主はなんと、ドン・キホーテホールディングス。まだホールディングスの公式HPには、ニュースリリースされていないが、建設予定地には建築計画の公示看板が張り出されている。

メインの敷地は、百軒店の奥というか、道玄坂小路(地元通称、平成女学院小路)の台湾料理店「麗郷」の裏の坂を上がった高台。アニメ「バケモノの子」で熊徹の家があったあたり。周辺の土地も含めて一体開発される予定。

敷地面積5,737㎡、延床面積41,800㎡、28階建てと、周辺のラブホや雑居ビルを圧倒する規模の開発。延床面積がマークシティのエクセルホテル東急(408室、25階建て)の倍あるから、余裕で渋谷最大級のホテルが建設可能。

渋谷駅周辺では延床面積数十万㎡の大規模開発が進んでいるが、ラッキーなことに大規模なホテルは建設されない。渋谷駅南区(渋谷川沿い)の開発の中で、180室のホテルが計画されているだけ。渋谷のホテル計画は、他にもあるが、数十室程度の小規模な計画が4つ(公園通り、並木橋、北谷公園、神泉)で、中規模なものが宮下公園の200室級ホテルだけ。将来的にも、セルリアンタワー東急ホテル(411室)が、渋谷最大のホテルの地位をキープする予定だったのだが、メガ・ドンキホテルがそれを上回るかもしれない。

ドン・キホーテはすでにホテル関連事業には参入済みで、東京と大阪に宿泊・物販一体型のホテルを開業している。(ホテルの事業形態や土地建物所有などは未確認。)インバウンド需要の取り込みという点で、ホテル事業とはダイレクトなシナジーがあるので、当然の事業戦略とは思うが、渋谷には今年メガドンキが開店したところなので、物販一体型というよりも宿泊がメインになるのでは。先行2ホテル(客室数196室、172室)の倍以上の規模の開発計画にドン・キホーテの気合を感じるが、まだ報知しないのは、なぜだろう?(ニトリの渋谷店出店も、ニュースリリースより、入居ビルの改装工事標識の方が先だった。。。)開業時期を見極めようとしているところなのかもしれない。

ところで、渋谷ドン・キホーテホテルの建設予定地が、これまた曰く因縁のある場所だったりする。
バブル期まで、そこには木造の旅館「聚楽」が立っていた。バブル末期頃には、閉店して駐車場になってしまったが、その後、四半世紀に渡り何も建設される気配がなかった。見晴らしのよい高台なので、ビルを建てれば渋谷の夜景が楽しめるだろうと思ったが、裏通り(それもラブホや風俗店が軒を連ねている)にしか接していないのが、難点だった(ラブホ以外の用途を思いつかなかった、、、)。

3年ほど前、渋谷区の都市整備課の人から聚楽跡地の開発が動き出すと聞いたが、その頃にはドン・キホーテが開発する意向が区に表明されていたのだろう。そういえば、ヤマダ電機裏口前の雑居ビルが更地になったのも、そのころだった。旧ドン・キホーテ渋谷店のビルも取り壊されて、ホテル開発の敷地になるようだ。旧渋谷店の裏には、渋谷店の事務所兼倉庫だったビルもあり、そこも敷地になる。もしかすると、渋谷店出店時から「聚楽」跡地買収を見据えていたのかもしれない。東急本店通りまで一体の敷地にして開発できるなら、「聚楽」跡地は渋谷の中では、なかなか他にない好立地だったし。

こうなると、ホテル事業者(運営)がどこになるのかが気になるところだけど、外資の高級ホテルじゃない方が嬉しい。松濤の高級住宅街と道玄坂の風俗街が隣接しているという極端な狭域多様性は、世界的に見てもレアな渋谷の特性だと思うので、MEGAドン・キホーテ的な無国籍なカオス感のあるホテルになることを期待してます。

その後、入ってきた地元情報によると、28階高層ビルの11階より上がホテルになり、中低層部はオフィスと商業施設にする計画だそうだ。単純に計算すると客室数400室ぐらいのホテルになりそう。
ホテルは、渋谷には少ないビジネスホテルクラスを考えているらしい。去年、キャットストリート付近に開業したTRUNK HOTELはスタンダートツインで1泊4万円台後半、今年、公園通りに開業するhotel koeも3万円台後半と、比較的高め設定。どちらのホテルも結婚式ニーズ狙いなので、メガドンキホテルと直接の競合はなさそう。



 

夜の渋谷区長 Night Mayor


渋谷には「夜の区長」がいる。

昨年6月、渋谷の「夜の区長」が任命された。「夜の帝王」みたいな怪しい噂ではなくて、渋谷区長も認めた公式・公認の「夜の区長」。

渋谷区なので、区長と書いけど、英語では"Night Mayor"=夜の市長。この制度の発祥の地は、アムステルダム。
アムスといえば、「飾り窓」とか、歴史的に夜の街だから、昔からある制度かと思っていたが、ナイト・メイヤーが生まれたのは、2003年と今世紀に入ってから。かの国ですら、昼の行政・警察と夜の世界が歩み寄るには時間がかかったらしい。
この制度が生まれるキッカケは、ポール・ダンスに対する規制強化だったそうだ。当時、市当局は、ポール・ダンスを売春につながるとして規制対象に含めようとした。ナイト・クラブ業界側は、これに対抗して、ある日、市内50ヶ所以上のクラブで一斉に、ポール・ダンスのワンナイト・イベントを開催した。市当局も警察も、取り締まりの手が及ばず、ワンナイト・イベントは大盛況。(抵抗の仕方がクール!)
その結果、行政側は夜の世界とのつながりの必要性を、ナイト・クラブ業界側も行政との窓口の必要性を互いに認識し、夜の世界と行政側をつなぐパイプ役としてナイトメイヤーが生まれたそうだ。

渋谷のナイトメイヤーは、アムステルダムとは真逆の「規制緩和」をきっかけに登場した。
日本の夜の世界を規制する風営法の対象ビジネスに、これまで「ダンス営業(客にダンスさせるお店)」が入っていた。風営法は、警察による売春、賭博の取締りを主眼に終戦直後1948年に制定されたのだが、キャバレーやダンスホールの類も、買春仲介の場になっているという当時の認識から規制対象に含まれてしまった。その後、60年代にディスコが、80年代にクラブが、日本にも登場したが、「夜+ダンス」ということで風営法の規制を受けることに。キャバクラならまだしも、普通のクラブ事業者にしてみたら、なんで警察に取り締まられるのか、わけがわからない話。
ビリヤード場もダンスホールとともに1948年に規制対象に入れられたのだが、ビリヤード場は早くも法制定7年後には、「健全な屋内スポーツ」ということで対象から外されている(駐留米軍あたりからの圧力があったのではと妄想)。ダンスホールの方は、何十年たっても規制対象のまま。
ダンスに限らず、風営法による規制や警察立入りについては、表現の自由、営業の自由などの基本的人権を侵害しないように、と1984年の法改正の際に国会付帯決議に盛り込まれるぐらい、風営法は曰くつきの法律として存在してきた。にもかかわらず、今世紀に入ってもクラブやライブハウスを朝まで営業することは禁止されていた。
それがようやく2015年に法改正(*2)され、2016年6月から(届出が必要とは言え)朝まで踊っていていいことになった。いろいろな背景(*1)が重なって、このタイミングの法改正となったと思うが、やはり、夜のダンス業界を初めてまとめられたというところが大きいと思う。特定のビジネスの規制緩和に関しては、行政側に働きかけを行う業界団体の成立がほぼ前提条件になっている。行政側からすると、規制緩和する代わりに、業界団体を組織させて、しっかり自主規制・自己管理はしてもらうよ、という意味もある。
ただ、夜のダンス業界については、業界団体が長らく組織されなかった。今回は、ユーザー側というか、踊る側が率先してクラブ等の事業者も巻き込んで動いた感じ。結果的に業界団体という一組織化まではできなかったが、夜のダンス界(業界ではなく)の「代表者」を選出したことが成功の要因だと思う。

で、代表者となったのが、夜の渋谷区長となったZeebra氏だったわけだが、非常に適切な人選だったと思う。クラブの事業者側はまとまり切れず、一方、ダンス団体はクラブ事業者とは距離を取っているような状態(文科省の方に近づいていた)の中、クラブの集客をリードしてきたDJ側から代表者が出れば、どっちのサイドの関係者も話をしやすいし、話も聞いてもらいやすい。もちろん法改正にいたるには、代表者一人だけの力でどうかなるものではなくて、代表者を支えた関係者の力量も高かったのだと思う。議員さんへのロビー活動でも、与党には市場規模で、野党には人権問題で、働きかけていく作戦なんて、背後に策士がいるんだなぁと思った。Zebra氏の友達は「悪そうなやつら」だけではなかったってことか。
実際のところ、彼は法改正活動の代表者となった時点で、実質的にナイトメイヤーになったともいえる。後付けとはいえ、抜け目なく、「渋谷の」観光大使としてナイトメイヤーの称号を使った「昼の渋谷区長」も相当な策士だと思う。(別に、港区や東京都が、ナイトメイヤーの称号を出そうと思えば、出せたわけだし。)

ところで、夜の区長がいる渋谷には、ちゃんと「夜の渋谷区庁舎」もある。真夜中はもちろん、朝まで開いている。(渋谷署届出済み)


*1:カジノ法案成立のための事前法整備だという説を唱えている人もいるが、さもありなんと思う。カジノの周辺には、諸々のダンスを含む深夜遊興営業が付きものだし。東京オリンピック決定もプラスに働いたらしい。さらに言えば、カジノ法案も風営法改正も、大きな流れ(追い風)としてはインバウンド政策があるんだと思う。この流れに乗らないと、東京ですら、将来は暗いということなのだろう。
*2:先の東京オリンピックの1964年に、少年非行防止を目的に深夜飲食店営業に対する風営法の規制が強化されている。今回の東京オリンピック前に、その規制が緩和されたのは、かなり意義深い。(ちなみに、1970年の大阪万博を契機に増えたモーテルやラブホは、1972年に風営法規制対象になったまま。)




渋谷VRアニメタウン化プロジェクト2024 STAND ALONE COMPLEX



数の上では、原宿界隈に集中なのだが、渋谷にもアニメ関係のショップが最近開店している。

渋谷マルイには、2015年4月改装時に8階にキャラクターステーションが初の実店舗で出店(以前はECのみ)。2016年4月には、プロダクションI.Gオフィシャルストアが7階に出店。プロダクションI.Gは、タツノコプロから分離独立した会社なので、本社は三鷹にあるが、攻殻機動隊を製作したことで事業拡大した会社だけに、渋谷は同社にとって特別に思入れのある街なんだと思う(笑い男!)。マルイに出店する以前から、渋谷パルコで展覧会や期間限定ショップなどのイベントをやっていた。2016年9月には、渋谷パルコにあったナムコのキャラポップストアも渋谷マルイに移転。その結果、渋谷マルイの7階、8階の大部分がアニメ系になってしまった。 
また渋谷modi(旧マルイシティ渋谷)のHMVブックスでは、今年9月にコミック・アニメコーナーを7階に拡張移転。イベントスペースも併設して、早速握手会のようなのをやっていた。

ちゃんと数えていないが、渋谷を舞台にしたアニメやゲームの方が、秋葉原を舞台にした作品よりずっと多いように思う。アニメ聖地マップを見ると、聖地登録数では、秋葉原に負けているが、作品数は渋谷の圧勝のようだ。だから、二次元渋谷に登場したキャラクターの商品が、リアル渋谷で売っているのは、自然な気がする。別にアニメ系ショップを別に秋葉原独占にしておかなくてもいい。
道玄坂には、バブル期に金にまかせて設置された意義不明芸術作品(パブリックアート)がいくつもそのままになっている。そんな渋谷に何の縁もゆかりもないゲージツはオークションにでもかけて、かわりにバーチャル渋谷で活躍したキャラクターの実物大フィギュアを設置した方が、観光・集客上、街のためになると思う。桜新町境港市だってがんばってるし。

いや、せっかく渋谷なんだからもう一歩前進して、VRを駆使するのもいいかも。TSUTAYA(Qフロント)とプロダクションI.Gが組んだら、2024年2月3日スクランブル交差点で、リアル「笑い男事件」をイベント化できるはず。ポストオリンピックのイベントとしても、いいかも。




 

原宿アニメタウン化陰謀説 Solid State Survivor




いつのまにか、原宿にアニメ関係の店が増殖していた。

原宿竹下通りあたりは、クールジャパン・カワイイ部門を牽引しているのは、メディアでもよく紹介されているし、キディーランドを始め「かわいいキャラクター」関係のお店は常にあった。だから、アニメでも小さいお友達向けキャラクター・ショップができるのは、理解できる。だけど、最近、なぜ原宿に?と思うようなアニメのショップも登場している。

・ ラスカル →わかる
・ ぼのぼの →まぁわかる。
・ プリパラ →女の子向けね
・ ワンピース →男の子向けかな。
・ ハイキュー!! →ん?
・ おそまつさん →んん?
・ スタミュ →んんん?
・ ラブライブ →大きいお友達も来るの?

キディーランド1階は、昔から新しいキャラクター商品の登竜門だけど、表参道東急プラザでも、アニメの期間限定ショップをよくやるようになった。
竹下通りには、スノーボードとアニメグッズを扱う謎のハイブリッドショップ「B★ポイント」がある。人気作品からスポ根BL系まで幅広いアニメ関連商品を入荷しているし、アニメとコラボしたスノーボード(痛板?)も販売中。意外な組み合わせな感じがするが、スケートボードでは20年前からアニメ風な絵(当時、海外ではHENTAIと呼ばれていた)を載っけた板があったぐらいだから、スノボでも意外とニーズがあるデザインなのかもしれない。

竹下通り裏の元ニコニコ動画本社ビルは、昨夏からアニメ・ゲーム・コミックとコラボした2.5次元ファッション・ショップ「2.5SPINNS」に変わっている。京都のティーン向けアパレル会社のクール・ジャパン新業態(竹下通りには通常のアパレル店舗も進出済み)。コラボ用にカフェも経営。本体アパレルの路線なのか、ここは、カワイイ系キャラクターがメインみたい(クレしん除く!)。

ラフォーレ原宿にもアニメショップが出店した。B1にできた「Hybrid Mind Market(HMM)」。店は地下なのだが、1階の明治通りに面してデカデカとアニメのポスター(大きさ的には壁画)が貼ってあるので、ラフォーレ前の雰囲気が少し変わったような気がする。ここは場所的にも、アパレルブランドとのコラボ商品企画ができるのが強みなのだが、まだ打ち出しは弱いかな。打倒COSPAぐらいの気合いを入れてほしいところ。

竹下通り裏には、声優の専門学校もある。国産ギターメーカーのESPが設立した音楽系専門学校からダンスと声優の学科が独立して、2005年春に「原宿パフォーマンスビレッジ」として開校。2013年春から、なぜか「ESPアニメーション声優専門学校」に校名変更。時期的には男性声優のアイドル化現象が一般メディア上でも確認できるようになったのと重なっている気がする。(ダンス学科の方は、どうなったんだろう?むしろ秋葉原の方がダンスが熱いのか?)
何かの専門学校があるというのは、その街の特性にそれなりに影響する。その分野に関心の高い人(学生、講師≒アニメ業界人)が毎日来る。しかも毎年、学生が入学してくるし、その街に何年か通ったOB/OGが毎年増えていく。声優専門学校が、原宿のアニメタウン化傾向の原因だとは思わないが、少なくとも集客や人材のベースにはなっていると思う。

ところで、疑問なのは、アニメ関連のグッズ販売に、なぜリアルの場が必要なのか。
キャラクター商品は、ネット販売にとても適している商材なのに。 小さいお友達向けキャラクター商品なら、実際に手に取ってみることができる場所が必要なのは、わかる。大きい子向けに、それもどちらかというとインドア派が多いと思われるのに、リアル空間に店舗を作るのか? これはアニメ業界側のニーズではなくて、店舗(商業施設)側のニーズなのかもしれない。どちらかというと人を屋外(街やお店)に引きずり出すために、アニメを利用している感じが強い。効果の大きさや範囲は違うが、ベースの部分では、ポケモンGOと同じ役割を期待されているのでは。
(後編、S.A.Cに続く)





道玄坂鎧武者の怪 UNDER ARMOUR



鎧武者がときどき渋谷を徘徊しているらしい。

特徴としては、鎧兜を着ているが、刀を持っていない。中の人が、外国人だったりする。8月頃からハチ公前とか109前とかに出没しているみたい。渋谷の路上は、毎週のように何かのキャンペーンやプロモーションで、写真に撮ってくれといわんばかりの恰好をした人々が出現するので、鎧武者ぐらいでは、誰もあまり気付いていないかもしれないけれど。

実はこれ、訪日外国人観光客向けの新サービスだそうだ。

道玄坂上に今年5月に開業した写真館「Samurai Armor Photo Studio」は、7種類の甲冑を用意して、店内の時代劇セットで写真撮影するサービスを開始。やり始めてみると「鎧のまま外に出たい!」という希望が多かったので、「渋谷街中撮影コース」をお盆明けからスタート。当局からの指導もあり、武器と思しきもの(レプリカの刀や槍)は屋外では持ち歩けない。1割ぐらい日本人客もいるらしい。

着物を来た外国人女性も道玄坂でよく見かけるようになった。

こちらは、今年4月に道玄坂上に開業した外国人女性向けカプセルホテル「NADESHIKO HOTEL SHIBUYAが提供する着付けサービス。ホテルに併設された和風ギフトショップで着物体験やレンタルサービスを提供している。
このホテルは、以前はUSENの社員用宿舎(USEN本社の裏手)だったものを、リノベーションしたもの。USENはフランチャイズ展開も企んでいるらしい。漠然とインバウンド需要を狙うのではなくて、女性・格安・一人旅にキリリとターゲットを絞ったところで、日本ではまだ未成熟な「体験型サービス」というバリューを放つというあたりは、手練れによる企画を感じるな。

浅草方面ならともかく、渋谷でこういう着物文化をベースにしたサービスが事業化できたのは、円山町がかつて花街(料亭があって、芸妓さんがいた)だったことが背景。おかげで、なんとか今に至るまで、着物文化を支える仕組みが渋谷(特に道玄坂上付近)には残った。
道玄坂に面して老舗の呉服店が残っている。明治時代に日本橋に創業した「玉川屋呉服店」。関東大震災で被災して、渋谷に移転。昭和のころは、東映時代劇の衣装は、ここが供給していたそうだ。
着物のレンタル会社「着物レンタルあき」の本店も円山町にある。着付けやヘア・メイクももちろんやっている。
神泉駅周辺にある国際文化理容美容専門学校では、着物の着付けも教えている。同校が運営する「衣紋道高倉流東京道場」では十二単の着付けを学ぶことができる。
実は渋谷では、着付けのできる人材や衣装の調達に困ることはないのだ。

今年も、渋谷の悪夢の夜「ハロウィン」が近づいてきたが、外国人観光客の人には、ぜひ甲冑や十二単でスクランブル交差点に突入していただきたい。今や世界的注目を集めるコスプレイベント会場となってしまったハロウィンのスクランブル交差点。デッドプールやハーレクインのコスプレ日本人を撃退しているところが海外メディアに撮影されれば、母国のお友達に大うけすること間違いない。






道元坂上露西亜少女奇譚  Котёнок



道玄坂上でロシア系美少女を良く見かける。

道玄坂上の交番付近をロシア系(東欧系?)の女の子がよく歩いている。しかも、みんな長身スレンダー美少女ばかり。わが国で言うところの「女子」や「ガール」と違って、ハイティーンから20代前半に限定されている。
たまに、朝一人で早足で渋谷駅方面に急ぐところも見かけるが、だいたい二人組で歩いている。道玄坂を登ってきて、交番のところで裏通り(旧大山道)に入って、ずーっと歩いて行く子たちが多い。

一時的、季節的な現象じゃなくて、年中見かける。付近にロシア大使館があるわけでもない。某国の留学生会館か何かあるんだとすると、スレンダー美少女に限定なのは至極不自然、、、と永らく訝しく思っていたら、先日、謎が解けた。

ある日の朝、旧山手通りの裏手を歩いていると、歩道沿いにロケバスとおぼしき車がに停まっていて、その脇の建物から例の美少女達が出てきて、バスに乗り込んでいるのに出くわした。どうやら、少女達はモデルさんで、そこに泊まっていて、これからロケバスで撮影に出かけるところみたいだった。
建物をよく見ると、長期滞在用ホテル「東急ステイ渋谷」のロゴ。普段通っている場所だが、外観は一見マンションにしか見えないので、いままでそこがホテルだとぜんぜん気づかなかった。東急ステイのHPを見たら、中身の間取りもまんまワンルームマンションで、部屋には小さなキッチンとダイニングが付いている。モデルエージェンシーの会社か何かが、東急ステイの部屋をいくつか借り上げて宿舎がわりにつかっているのだろう。
彼女たちが、二人で歩いていることが多いのは、東急ステイが二人部屋だから(ささめきルームメイト!?)だと思う。道玄坂上交番から裏手に入っていくのは、宿舎への帰り道、マルエツ・プチ(24h営業スーパー)で食材なんかを買いものするためだったようだ。

為替が円高にシフトして、訪日外国人数の伸びに陰りが見えるが、海外から日本に稼ぎに来るなら、逆に良い時期になった。東京で稼いで、渋谷で暮らすというのは、魅力的だと思う。
地元円山町のクラブやバーが彼女たちにはノーチャージにして、ロシア系美少女遭遇率を高くすると、男子集客増につながると思うのだけれど。。。わが国の女子が公開処刑をいやがって来なくなるかな。




 

渋谷フィギュア伝説(後編) BOUNTY HUNTER



90年代後半、渋谷はフィギュア購入層を新たな方向に広げた。

1995
年に裏原宿(死語)にバウンティー・ハンターが開店。文化服装学園でUNDER COVERのデザイナーの1年先輩だったひかるさんが開業したパンクロック系ファッション雑貨店だったが、オリジナルのフィギュアを出したら大ヒット。その後もオリジナルフィギュアは販売即日完売が続いた。ストリート・ファッションからフィギュアへのアプローチの代表例。悪い子向けフィギュアという新ジャンルを確立したことは、玩具史上特筆もの。

1996
年にメディコム・トイが設立され、直営店「プロジェクト1/6」が渋谷無国籍通りに開店した。(その後、現在の神山通りに移転)社長の赤司さんは、渋谷育ちで、原宿キディーランドがその原点。渋谷のIT企業に勤務しながら無理やりトイ事業部を起業(それ以前に、個人的にトイショップを恵比寿に開店している)。まさに渋谷からフィギュアへのアプローチ。設立当初は昭和日本特撮モノのアクションフィギュアでブレイク。2000年にキューブリック、2001年にベアブリックをリリースし、国際的ヒット。フィギュアにおける「1枚だけ来てもおしゃれなTシャツ」的存在を生み出した功績は、業界史に残ると思う。
創立20周年の今年6月には、新店舗が表参道ヒルズ開店。余りの混雑にオープン当初は、数日間入場制限が続いた。東京ソラマチにも出店しているが、観光客を呼び込めるキーテナントという位置付けなんだろうな。

世紀末当時は、ストリート系のフィギュアは、集めていてもオタクとは思われない(つまり、リア充の趣味の範疇)ということに(表向きは)なっていた。実際のところは、オタクの殿堂まんだらげのフィギュアコーナーに「裏原系」という分類があったぐらいだから、ヲタク受けもしていたんだと思う。
そして今世紀に入り、スターウォーズシリーズの再開、スパイダーマンの映画化も手伝って、フィギュアショップ開業にも新しい動きが起った。

2002
年に原宿(明治通り沿い)にUSキャラクタートイの専門店「ブリスター」が開店。2005年には渋谷(公園通り沿い)のビル3フロアを使って拡大移転。USに限定せず内外のキャラクター全般を扱うキャラクターメガストアを目指した。品揃えが広く浅くなってコアな客層に逃げられたのか、ビルの賃料に耐えかねたのか、(そのために)他店より高めの価格設定とシツコイ(圧迫?)接客が祟ったのか、2008年に原宿(旧裏原)へ再移転したが、2010年には敢え無く浜町へ縮小移転(通販メイン)。2013年に秋葉原中心部に移転し現在に至る。
渋谷からブリスターが撤退した当時、渋谷はもはやサブカルの街でなくなったのでは、と心配する声もあったが、そうはならなかったなかった。

2011
年には、香港のフィギュアメーカー「ホットトイズ」のフラッグシップショップ「トイ・サピエンス」が原宿(奥原?)オープン。開店時の取材に対し、香港本社のチャン社長は「東京はアジアのトイ・フィギュアビジネスでも重要な場所。」とヨイショしていたが、日本法人のデュボア社長は「(原宿は)フィギュアカルチャーの発信地でもあるが、最近は停滞してきているので、当店から21世紀のフィギュア文化を発信できれば」と鋭い指摘もあった。

フィギュア業界は、ベースになるコミックや映画のヒット作が供給されないと新商品展開も滞ってしまう。しかし現在、アメコミの映画化が2020年までに30本近く予定(公開中を含めマーベル系20本、DC系8本、他にも企画あり)されているので、アメコミ系のフィギュアに関しては、当面は新作リリースに事欠かないだろう。その上、STAR WARSもまだ続くし。。。どっちかというとコレクターの方が大変になるかもしれない(貯金しとけよー) 。
今年(2016年)5月には、トイ・サピエンス内に「MARVEL 原宿ポップアップストア」が限定オープン。6月には、マーベルコミックスのファンサイト「Marvel Database(マーベル・データベース)」の日本版開設を記念して、渋谷ヒカリエにファンのリアル・コミュニティースペース「MARVEL FANS CONNECT」が期間限定オープン。結局なんだかんだで、アメコミ側も、(秋葉原や池袋でなくて)渋谷方面への攻勢を強めている。

一方、フィギュアの隣接分野であるキャラクター商品でも、昨年あたりから、渋谷・原宿でいろいろ動きがあるようだ。(番外編につづく・・・)





 

渋谷フィギュア伝説(前編) Monster Japan



渋谷周辺は、フィギュア専門店が意外と集まっている。

原宿の人形館の主スーパー・ドルフィーは、「ドール・フィギュア」という中間的位置付けなのだが、いわゆる「フィギュア」を扱うショップも渋谷周辺にはそれなりにある。フィギュアというと秋葉原あたりで売っているイメージがあるが、渋谷周辺のショップは、非アキバ系というか、ある意味渋谷的というか、ある種の共通性がある。何を三次元化したかでフィギュアを分けるとするなら、渋谷周辺のフィギュアショップは、日本のマンガ・アニメのキャラクターを主力にしていないのが共通点。そっち系のフィギュアを扱っているのは、まんだらげ渋谷店ぐらい。

渋谷周辺にフィギュアショップが成立するようになった背景は、USA古着屋が集まっていたことだと思う。

USA古着を取り扱うユーズド・ショップが、原宿に1970年代からできはじめ、店頭には、ちょっとした小物としてアメコミ関連のトイ・フィギュアも並んでいた。ミッドセンチュリーのキャラものもは定番で、古典カートゥーンのミッキーやベティ・ブーブはもちろん、アメコミ系のバッドマンやスパイダーマンのフィギュアもよく飾られていた。当時から営業を続けている老舗古着店「banana boart」の外壁には、レトロタッチなスパイダーマンのペイントが今も残っている。
90年代には渋谷界隈には相当な数のユーズドショップがあった。古着好きが集まるエリアだったから、おのず、アメコミ関係のフィギュアのニーズもあったんだと思う。

USA
古着屋が原宿にできはじめたのと同時期、1975年に恵比寿にUSトイ・フィギュアを扱うホビーショップ「ミスタークラフト」がオープンしている。ビルの1階から5階まで、おもちゃやプラモデルで埋め尽くされた大型店(もしかすると原宿キディランドより広い?)であったが、残念ながら2008年に倒産し閉店

1992年には、ミスタークラフトの近所にUSトイ・フィギュアの専門店「モンスタージャパン」が開業。こちらは、現在も同所で元気に営業中。
90年代半ばには、インポートトイ・ショップ「フリップフロップ」も恵比寿に開店。この店は、渋谷のフィキュア・メーカー「メディコム・トイ」(後述)の赤司社長が、同社設立以前に、会社に勤務する傍ら個人的に開業していた伝説のお店(その当時の店の常連さんが、後にメディコム・トイの中枢メンバーになった。)。
これらの店と関係があったのかどうかわからないが、2003年まで恵比寿では、アンティークトイの即売会「エビス・トイ・バザー」が年3回開かれていた。

90
年代の恵比寿は、実はインポート系トイの聖地だったのかもしれない。当時、ミスター・クラフトにもちょくちょく行っていたが、ぜんぜん気付かなかったけど。(ちなみに、コップのふち子のメーカーで知られる奇譚クラブ2012年に恵比寿に本社を移転している。)
その後、90年代後半には、渋谷周辺ではフィギュア購入層が新たな方向へと広がっていく。。。(後編に続く)






球体間接人形の館 Et Dukkehjem



原宿には、球体関節人形の棲む館がある。

「住んでいる」じゃなくて、まさに「棲んでいる」という雰囲気。その館の地下では、球体関節人形に霊魂か、聖霊か、プネウマか、何かそのようなものを天から降臨させて、人形を息づかせる儀式が執り行われているらしい。
館は、古風な洋館風ではないが、列柱や出窓といった洋館モチーフは使いつつ、曲線を多用したアールヌーボー調のデザイン。ガウディの建築ほどぐねぐねではないが、周囲の建物とは、十二分に違和感がある。というのも、ここは90年代、ピンクハウスの関連ブランドの本店として建設された。世紀末にはブランドは撤退し、建物ごと「For Rent」となった。雰囲気過剰というか、癖の強いデザインのためか、その後、なかなか借り手がつかなかったが、いつの間にか、球体関節人形の館になっていた。雰囲気がそれらしすぎて、以前を知らない人が見たら、最初から人形のために設計されたんだと思うかもしれない。

館の主は、模型・フィギュアメーカー()ボークス。ここは、同社の球体関節フィギア「スーパードルフィー」の専門ショップ「天使の窓」。ここは2012年開店だが、この建物に入居する以前は、斜め向かいのビルで営業していた。
同社は、京都今出川のプラモデル屋さんをルーツにするガレージキットメーカーだったが、女性をターゲットにした新商品として、球体関節型ドールフィギュア「ドルフィー」を1997年開発。スーパードルフィーは、その後続商品として1998年に発売開始。当初はフィギュアと同じように受注生産のような形で売られていたそうだ。

その後、女性向け商品として独自の販売戦略を展開する。一般流通は避け、スーパードルフィー専門ショールームを全国展開し、同社ショールームか同社イベントでのみ販売。スーパードルフィーは単なる人形ではなく、購入者(オーナー)の人格(魂?)を反映する特別な存在(もう一人の自分?)という世界観を設定。商品探しは「出会い」、購入は「お迎え」、塗装は「メイク」と言い換えるなど、接客面でも世界観を表現するなど、具体的戦術を徹底。その結果、全国各地にショールームを開業するまでに成長した。

やがて、スピリチュアルというかオカルトというか、顧客の精神的価値観に訴求する方向に力が入りすぎて、一時は、販売戦略という域を超えて、布教活動の領域に踏み込んでしまったようだ。一部顧客から「霊感商法」疑惑が持ち上がったこともあるらしい。時期的には、同社がローゼンメイデン薔薇乙女各種をコラボレーションモデルとして限定生産していた頃と重なっており、全国的な球体関節人形ブームを追い風に勢いづいて、ブレーキが効かなかったのかもしれない。
いまでは、騒ぎはすっかりおさまっているようだが、原宿の人形の館の地下1階には「天使の窓・降臨台」なる場所が設けられており、購入=お迎えのセレモニーは続けられている。

ボークス社は、フィギュア、ホビーのショールーム(まるごとビル1棟)を秋葉原に構えているが、原宿にもフィギュアショップがないわけではない。渋谷や恵比寿にも点々とあるが、秋葉原界隈のショップとは、多少傾向が違うようだ。(つづく)




 

原宿人形愛 Rozen Maiden



原宿は、日本の人形作家のメッカだ。

松涛の洋館にお住まいのローゼン麻生閣下、ご自宅のお庭には、薔薇が咲いていそうだが、きっと応接間には、由緒あるアンティークドールが飾られているに違いない(勝手な妄想)。ローゼンメイデンを実写化(2.5次元化?)するなら、是非ロケは麻生邸でお願いしたいが、人形師ローゼン役には、この人と思う人形作家がいる。

それは、四谷シモンさん。人形作家として1960年代から活躍しているが、NHK大河ドラマにも出演していた俳優でもある。
子供の頃は川崎ブッペ('50年代に活躍したフランス人形作家)が大好きだったが、二十歳の頃にハンス・ベルメールの球体関節人形に衝撃を受けて作風を変えたそうだ。同じころ、画家の金子國義さんと知り合ったそうで、二人の作品にはよく似た感じ男の子()が登場する。
その後、金子國義さんに唐十郎さんを紹介され、唐さんの「状況劇場」(日本演劇史の伝説的地下劇団)に出演することになり、そこから俳優として活躍が始まる。そのとき芸名として「四谷シモン」と初めて名乗ったそうだ。

四谷シモンさんは、渋谷・原宿と縁の深い人だ。
小さなころは根津のあたりにお住まいだったようだが、中学生のときに渋谷区立外苑前中学(竹下通りの裏手)に転校してきている。同じ頃、西麻布にあった川崎ブッペさんのアトリエを初めて訪ねている。中学卒業後、自由が丘のすし屋でバイトしながら、人形制作を始める。若干15歳で作った人形は自由が丘の洋品店に置いていたら、売れてしまったそうだ。
シモンさんの作品が広く世間の目に触れるきっかけになったのは、1967年の渋谷東急本店の開店だった。開店キャンペーンのためにディスプレイ用人形を製作。雑誌の記事になるぐらい、かなり前衛的な人形だったようだ。
同じ年、状況劇場の公演に役者として出演するようになる。1969年には、渋谷金王八幡での状況劇場公演「少女都市」に参加。その公演中、寺山修二の劇団「天井桟敷」と唐十郎の劇団「状況劇場」の乱闘騒ぎが発生!渋谷署に2晩「留まる」ことになったそうだ。(あの境内は歴史的に抗争の場と化す呪いがかかっているような気がする。)
1978年には、JR原宿駅近くに人形制作学校エコール・ド・シモンを創立。いまでは周りにデザイン系、造形系、ファッション系の専門学校も建ち並ぶ。創立以来、ほぼ毎年、生徒の作品の展覧会も開催しており、中にはnのフィールドを思い出させるような作品もある。もちろん、ここからプロの人形作家も巣立っている。

エコール・ド・シモンは、学校であると同時にシモンさんのアトリエでもある。外苑前中学もすぐ傍。シモンさんにとって、原宿は多感な時期を過ごした場所であり創作の場でもあるんだと思う。ちなみに、現在のシモンさんは、年に1体しか人形を作らない。そのせいもあって、彼の作品は1体500万~1000万円(!)でも売れてしまう。

エコール・ド・シモンから北上すると(住所は代々木。一応、渋谷区)には、「人形美術協会」の本部もある。

文化庁管轄の財団法人で、日本の人形芸術振興団体。本部、地方の支部では、初心者向けから高度な技術まで、人形制作の指導を行っている。早い話が、人形教室の先生の家元制度を運営しているような組織。もともとは、松濤にあった東京人形学院が1962年に設立した全日本人形師範会が母体。人形劇をやる人達の団体「日本人形劇人協会」も、ここの近くに本部がある。
いままで知らなかったが、渋谷~代々木にかけては、人形制作にかかわる人が集まる場所が集中しているようだ。人形美術協会やエコール・ド・シモンのような本格的に人形制作を教える場があったこともあるが、NHKが人形劇番組を長く続けてきたことも関係があると思う。

すっかり忘れていたが、ローゼンメイデンのアニメ第二期で、主人公が彼女(?)を送って行った場所は、代々木八幡の裏通り(青年座のあるあたり)だった。第二期の展開には、「劇団」が重要な舞台になるのだが、四谷シモンさんが劇団の役者だったこととオーバーラップしているような気がする。人形と俳優には、模倣、仮装、鏡像、自己愛など、底通する要素が多い。ときに、行き過ぎた人形愛は、自己愛との境界を脆弱にしてしまう。そのとき、人形愛好者は、人形に魂を感じるのかもしれない。
そんな魂を感じさせる人形の棲む館が、原宿にはあったりする。(後編につづく)