渋谷暗黒巡礼 Dark Pilgrimage in Shibuya

見ようとしても誰にも見えない渋谷、見えてるのに誰も見ようともしない渋谷

事件 murder case

渋谷テロリズム(ライブハウス編) Chelsea Hotel Shibuya


かつて渋谷で、ライブ観客が無差別に殺されそうになった。

幸い、大量殺人は未遂に終わったが、タイミングがちょっと遅れていたら、英国マンチェスターのコンサート会場テロ並みに惨いことになっていた。

事件は東急ハンズの向かい側のビルB1にあるライブハウス「Chelsea Hotel」で2011831日に起こった。催涙ガス噴射とか、放火未遂とか、そういうワードで報道されたので、一般的には「観客は災難だったねー」程度の事件として記憶されているような気がするが、実際は、大量殺戮寸前のかなり緊迫した状況だったらしい。(詳しくは、犯人に催涙スプレーを噴射されながらも怯まず取り押さえたガッツのある支配人(店長)の手記で

犯人はガソリン10リットルを持ち込んでおり、催涙スプレーを噴射しまくっていたときには、店内にガソリン臭が充満していた。取り押さえるタイミングがちょっと遅かったら、一瞬で火の海になっていたかもしれない。その上、犯人は出刃包丁も持ち込んでいたから、先日のロンドン橋の切りつけテロみないな展開になっていたかもしれない。
英国のテロ事件は、日本から見ていると、今のところ彼岸の出来事のようだけれど、同じような凶行は、東京でも簡単に出来てしまうということをこの事件は、教えてくれていると思う。海外からテロリストが来日したとして、外国人観光客にまぎれて、どこにでも出入りしやすい渋谷は、狙われやすい街だと思う。テロリストは世界的なニュースにしたいだろうから、世界的に知られている街の方がいいだろうし。

ナイスファイト支配人のおかげで、武勇伝の刻まれたライブハウスChelsea Hotelは、今でも繁盛している。実は、Chelsea Hotelのオーナーは、「奥シブ」のへそ「宇田川カフェ」や山羊のいる「桜ヶ丘カフェ」も経営する人で、そもそもは音楽レーベルや音楽プロダクションの経営から始めたらしい。事件発生の報告を当の支配人から受けた直後に本人が書いたブログがまだ残っている。
ご本人いわく

『私の著書「UDAGAWA CAFE BOOK」にも、この「チェルシーホテル」が出来上がった時、新しい内装が嫌で「一度店を燃やせ。」といったことがある。と書いているが、お客さんのいるところでは燃やしてはいけない。』
いや、お客さんがいなくても、お店を燃やしてはいけないでしょ。

そういえば、渋谷Loftの裏手にあったFake Tokyoが最近、宇田川カフェに模様替えした。元の宇田川カフェがビル建て替えで閉店して、あそこに移転したらしい。
宇田川カフェSuiteの方は、外壁が落書きだらけChelsea Hotelステッカーだらけ。それを放置しているのは、オーナーの「ピカピカの新装」嫌いが理由なのかもしれない。Loft裏のカフェは、まだ新品状態だけど、どうやって「味出し」するんだろう。もし放火されたら、第一の容疑者はオーナーかも。





渋谷テロリズム(火達磨編) San Lorenzo Martire


渋谷の路上で人が生きたまま燃き殺されたことがある。

しかも周りには大勢の人が取り囲んでいたという。46年前のことだが、まるで中世の魔女狩りだ。

先日、渋谷暴動事件で指名手配されている元過激派の大坂容疑者と思われる人物が広島で逮捕された。渋谷暴動事件は、過激派の学生が渋谷で大暴れして交番でもぶっ壊したぐらいに、それまで思っていたが、そんな程度の「暴動」ではなかったようだ。フランス大統領選中の5月、パリで起こった暴動と同じぐらい過激に、デモ学生と警察が衝突を起こした事件だったらしい。

その暴動の最たるものが、大坂容疑者が関係した警察官殺害。その殺し方が酷い。

『中村警部補の警備部隊は神山町でデモ隊と遭遇。大群衆に押され、部隊は後退し、数人が逃げ遅れた。路上に倒れた中村警部補には暴徒が群がり、鉄パイプでめった打ちに。そして、複数の火炎瓶が投げつけられ、激しい火の手が上がった。中村警部補は病院に搬送されたが、大やけどを負っており翌15日に亡くなった。(産経ニュース2016.11.24 )』

滅多打ちにして動けなくなったところに、ガソリンをかけてから、大坂容疑者が火炎瓶を投げつけたという記録もある。遺体は半分炭化していららしい。非道さはテロ以上。5月のパリ暴動でも火炎瓶で機動隊員が火だるまになったが、動ける状態だったので命は助かっている。
当時、現場には、デモに参加した学生たちもいたし、取材にマスコミも集まっていた。なのに、生きたまま人が燃えているのを、ただ傍観、というか記者もひたすらカメラで撮影していた、というところがもっと恐い。(戦中世代は、人が燃えているのなんて、見慣れていたということ?)

もう一つ驚いたのは、事件が起こったのが、渋谷駅前交番付近なんかではなく、松濤の高級住宅地に接する神山通りだったこと。今は、ちょうどこの辺から「オクシブ」と呼ぶようになる。

事件現場には、殉職した中村警部補の慰霊碑が建てられている。統一教会の筋向いの古いお米屋さんの脇。慰霊碑の場所はお米屋さんが提供したそうだ。ストリートビューでも、良く見るとちゃんと写っている。小さな小さな慰霊碑なので、十年以上毎週前を通っていたのに気が付かなくて、本当に申し訳ありません。。。
こんな平和な住宅地で大暴れして火まで放つって、本来のデモのの目的とはまったく関係ないし、結局、社会を何も変えられていないし、デモ学生は、はなから単に暴れたかったとしか思えない。当時、全国でこんな風に暴れていた学生達は、今は会社という拘束具から放たれ、年金で自由に暮らしている。暇になったからといって、また学生の頃みたいに共謀して、首都高を集団逆走とか、団体バスで通学の列に突っ込むとか、絶対にやめてほしい。

ところで、暴動現場から安倍首相のご自宅マンションまでは、歩いて10分程のところ。周辺住民からは、テロの標的になるから、ちゃんと永田町の官邸の方に住んでいただきたいという声が上がっているが、相変わらず、あそこにお住まい。地元では、官邸に住みたくないから共謀罪の成立を急いでいる説を唱える人も。





円山町の地獄太夫 Pretty Woman


20
年前の319日、神泉駅直近の木造アパートで女性の他殺死体が発見された。

殺害は38日深夜から翌9日未明。アパートの部屋に死体が10日間放置されていた。死体発見から2か月後、容疑者として不法滞在外国人が逮捕されたが、一貫して無罪を主張。事件から15年後の2012年に無罪が確定した。
この事件は、後に「東電OL殺人事件」と呼ばれ、大きく報道された。ジャーナリスト(自称含む)や社会学者、心理学者の興味を相当にそそったらしく、この事件に関する雑誌記事や書籍もいくつも書かれ、世紀末東京を象徴する殺人事件として、あるいは渋谷の黒歴史として、言い伝えられている。

当時、ランブリングストリートを軸に徐々にイメージ刷新しつつあった円山町の印象を以前より悪化させたかもしれない。郊外の住宅地で起きた殺人事件では、閑静な住宅街や平凡な家庭との対比が犯人の狂気を感じさせるが、この事件では、殺された女性がこんな場所でそんなことをやっていたという意外性の方が狂気を感じさせ、この場所で殺人事件が起ったのは、むしろ当然と思わせるところがあった。殺された女性が客引きをしていたのが、口紅を付けた地蔵として知られる「道玄坂地蔵」の前だったとか、事件現場付近は、その昔、人骨が多数発掘されたため「地獄谷」と呼ばれた場所だったといったとか、過去からの呪いというか、地域的な因縁を感じさせずにはおかないものがある。

20年経って、現場付近は当時の面影もない、、、と書かれる殺人現場の方が多いだろうが、この事件の現場となったアパートは、渋谷の街中にありながら、当時と同じ状態で今も存在している。その上、アパートの部屋も何事もなかったかのように、ちゃんと貸し出されている。部屋のドアには、今は暗証番号キー付のノブが取り付けられており、ときおり人(実際に見かけたのは欧米系外国人だった)が出入りしている。

実は、このアパートのオーナーは、近所のネパールレストラン経営者。元々は、殺された女性に「営業用」として部屋を貸していてたし、容疑者男性の仲間である不法滞在者にも、その部屋を貸そうとしていたらしい。20年前から借り手の出自や事情は一切問わないダイバーシティ経営を続けているとは、さすが渋谷、と言っていいのかもしれない。
容疑者が仲間の不法滞在者といっしょに隠れ住んでいたのは、そのアパートの隣のビルだったのだが、こちらもいまだ健在。いや、健在というより益々老朽化して、さらに怪しさが増している。1階はラーメン屋やブティックなので、それほどの怪しさではないが、2階より上は、何に使われているのかよくわからない。以前は屋上に外国人が集まってパーティーで大騒ぎ(怪しいハーブが使われたかは不明)なんていうこともあった。

この殺人事件の真犯人は、いまも謎のままだ。事件当時の法律では、15年後の2012年に時効が成立するはずだったが、2010年の法改正によって強盗殺人の時効が撤廃されてしまった。とういうことは、捜査は続けらえているのかもしれない。
以前、円山町を散歩していたら、殺人現場はどこか道を訊かれたことがある。いま思い返すと、あれは2012年だから、容疑者の無罪が確定し、この事件が再びニュース報道された年。今年は、事件後20年目ということで、記事になるか、迷宮入り事件特番になるかもしれない。
地元商店会や町内会は、事件の記憶を封殺したいところだと思うが、今の時代、それは不可能だから、むしろ今はもうあんな事件は起こらない町になったことを示せるといいのだけれど... 実際、いまでは円山町ホテル街は、渋谷の中でも監視カメラの設置台数が多いエリア(*)になった。東電OLの立っていた道玄坂地蔵にも監視カメラが設置され、夜中に立っている女の人もいない。ただ、あの辺りに「デリバリー」されてくる女の人は、当時よりも増えているかもしれない。


*:そのせいか、落書きやシールも減っている。逆に円山町南部のホテル街ではないエリアの落書き(グラフィティ)が近年急増している。


 

妖婦と地霊 Erdgeist 2006



ちょうど10年前の12/28、下半身だけの死体が宇田川遊歩道脇に捨てられていた。

この殺人事件は、後に「新宿・渋谷エリート殺人事件」としてマスコミに大きく取り上げられ、その裁判までも注目を集めた。殺されたのは外資系企業に勤める30歳男性。犯人はその年上妻。殺害現場は、二人の自宅。代々木公園のすぐ近く、井の頭通りに面した新しいマンションだった。
死体の上半身が200612/16に西新宿で発見された。遅れて12/28に下半身が富ヶ谷の深町交番付近の空き家の庭で発見される。翌2007年、1/10に犯人は逮捕された。その後、死体の頭部は発見されたが、両手首は見つかっていない。
下半身の遺棄場所は、阿部首相の自宅もすぐ近く。坂を下って約4分という距離。そういうと高級住宅街のような感じがするが、同じ富ヶ谷1丁目でも、神山通りより西側(高台側)と東側(宇田川遊歩道周辺)では、地価はかなり違う。宇田川遊歩道沿いは、もともと地盤が弱く、大きな邸宅はない。2010年の地震でも、現場の23軒隣のアパートの土台がひび割れ、斜めに傾いた。
現場周辺エリアは、昔「深町」と呼ばれており、いまも交番や祭りの神輿に名前を残している。このあたりが、底なしの沼田だったことが、その町名の由来というぐらい、ずぶずぶの低湿地だったらしい。

犯人は、頭や上半身はタクシーや電車で自宅から離れた場所に運んでいるが、下半身は運ぶのに疲れて近所に捨てたらしい。計画的にあの場所を選んだわけではなさそうだが、地形的にじめっとした、風水的に陰にこもった、あの場所に捨てたのは、なんとも的確だったと思う。ゲニウス・ロキというか、なんというか、常軌を逸した極限の精神状態になると、人は無意識にそういう場所の匂いを嗅ぎ付けられるのかもしれないと思いたくなる。

現在、死体遺棄現場となった民家は取り壊され、雑草が生い茂っている。門とブロック塀は残されているが、残された倉庫と隣の家の壁には、落書き(グラフティ)がデカデカと描かれている。転売される気配も、建替えられる様子もない。
一方、殺人現場となった犯人と被害者の自宅マンションは、いまもきれいなままだ。「両手首のない幽霊が出る」といった噂は聞いたことはないが、その部屋をAirbnbで貸し出したら、亡霊好きのイギリス人が殺到するかも。代々木公園近いし、原宿、渋谷にも歩いていけるし。

実は、渋谷には殺人現場を貸し出しているアパートがあったりする。







格闘技の宮殿 Sports Palace



かつて渋谷は、プロレスのメッカだった。

渋谷大相撲は明治期に廃れてしまい、東京で大相撲と言えば、本所でやるものということになった。明治末期には本所に国技館が建設され、大相撲は屋内競技に変わってしまった。

時を経て昭和中期、その相撲界から登場した日本プロレス界の祖・力道山が、国技館のような常設会場がプロレスにも必要と考え、渋谷に3千人収容の格闘技専用ホールを建設した。
場所は、今の渋谷マークシティの裏(というか南側)。渋谷中央街(センター街ではない!)のちょうど突き当り。建物は9階建てで、3階から5階が吹き抜けのオーディトリアムになっていた。ここではプロレスやボクシングの興行が常時行われ、超満員。TV中継も行われていた。(当時、プロレス中継は、暴力的で子供に見せたくないとPTAから問題視されるぐらい、人気番組だった。)
格闘技ホール以外に、レストランやバー、キャバレーの他、当時は新ビジネスであったサウナやボウリング場も設けられた。さらにボクシングジム、ボディービルジムの他、女性専用スポーツジムまである画期的なスポーツ・コンプレックスだった。建物の上には、巨大な王冠(ネオン付き)が乗っかった文字通りのパレス(宮殿)だったようだ。

オープンは1961年。前回東京オリンピックの屋内競技場(国立代々木競技場)が渋谷に建設されることに決まったのは1962年だから、オリンピックの殿堂より先にスポーツの宮殿が渋谷にはあったことになる。
(ここから、スポーツ帝都渋谷の歴史が始まるのだが、、、それは改めて書ければ、、、)
しかし、オリンピック前年(1963年)に力道山は、暴漢に刺殺されてしまう。リキ・スポーツパレスも身売りせざるを得なくなり、プロレスホールは、巨大キャバレー(ダンスホール付?)に改装されてしまう。(建物としては、'90年代まで存続したが、いまはオフィスビルに建て替えられている。)

その後、昭和の後半戦は、渋谷と格闘技というと、ピンとこなくなってしまうのだが、昭和末期から、センター街に夜な夜な生きのいいお兄さんたちが集まり出し、やがて乱闘騒ぎが起こるようになった。後に言うチーマーの抗争である。その頃、センター街のイメージと言えば、ワイルド&バイオレンス。なんとなくストリートファイトのメッカみたいになってしまった。あの岸谷五郎最強伝説が生まれたのも、その頃だろう。
チーマーの暗躍も平成に入って暫くすると終焉。その後、カラーギャングも登場したけど、どっちかというと池袋や東京郊外の街でブイブイいわしているという印象。世紀末の渋谷というと、ギャルの街というイメージに変わってしまう。

とはいえ、いまでも格闘技関係の施設が渋谷周辺には点在している。魔裟斗を輩出したキックボクシング伊原道場は、代官山駅近くにいまもある。K-1のジムも恵比寿にある。台湾政府公認の全日本柔拳連盟本部も最近、渋谷南口にビルを新築したばかり。元関東連合の格闘家が開いたジムも代官山のあたりにあるらしい。
最近、格闘技系ジムでは渋谷最大となるジムがオープンした。いま渋谷は、海外から両腕がっつり刺青のガタイのいいお兄さんたちが多数集まってくるので、ワールドワイドにタフ&ワイルドな街になるかもしれないと思ったり。
(最新格闘技ジム詳報は、次回へ続く、、、)




 

囚人服と機関銃 LAST DROP OF BLOOD




80年前、渋谷で銃殺刑が行われた。

戦前、渋谷には日本帝国陸軍の刑務所があり、二・二六事件を実行した将校17人が収監されていたことは、以前に書いた。そのとき、死刑執行がどのような方法でどこで行われたか、はっきりわからなかったが、死刑執行前後のリアルな状況をたまたま書いたものをみつけた。はっきりしたことがわからなかったのは、刑の執行日は、軍の極秘事項だったためのようだ。

当時、将校達の葬儀を委託された葬儀屋の家族の証言によると、軍から注文を受けていること自体、世間に知られないようにいろいろ苦心したそうだ。
棺も沢山作らないといけないので、棺が出来上がると次々に店の二階に上げて、人目につかないようにしたとか。棺の搬入も、大八車に載せて刑務所まで何度も往復して、少しずつ運んだそうだ。

刑執行の日取りは、地元の在郷軍人会にも知らされていなかった。ところが、とても意外なところから、情報が漏洩した。
ある日、渋谷の仕出し屋に刑務所から豪華な弁当の注文が多数入った。その話が仕出し屋の亭主から偶然、在郷軍人会メンバーの耳に入った。弁当納入の翌日に刑が執行されるのは間違いない。執行前夜、死刑囚に美味いものを食べさせるというのは、本当だったんだな。。。

刑務所門前の住民の証言によると、処刑当日の早朝、刑務所前にタクシーが停まり、若手将校数人が白い布でくるんだ拳銃を手にして降りてきたそうだ。同世代の将校の手で銃殺させるとは、帝国陸軍も残酷なことを命じるもんだ。某テロ組織の見せしめ目的の銃殺とは違って、組織と規律の維持に不可欠な銃殺だったということか。

在郷軍人会メンバーは、当日早朝から刑務所付近で刑執行の銃声がしないか聞き耳を立てていた。証言では、銃殺の瞬間の様子が生々しく語られている。
「…時間は覚えていないが、突然練兵場内(刑務所の北側は陸軍の練兵場だった)から猛烈な重機関銃、軽機関銃、小銃等の一斉射撃が聞えた。現役兵だった私も空砲をこんな激しく撃った記憶はない。その時間は恐らく一分間に満たないが、断続的に二回、三回と、行われたと記憶している。刑執行の銃声は、猛烈な機関銃の発射音に遮断されて一般人の耳には届かなかった。(出典名確認中)」

将校たちの慰霊碑は、遺族が処刑が行われたあたりの土地の近くに設けたそうだ。ということは、処刑場があったあたりに今、小学校や保育所が建っていることになる。処刑場に子供たちが毎日通っているのはいかがなものか、と思う人もいるだろうが、そういう場所は、東京中にある。池袋サンシャインシティは巣鴨プリズンだったし、隅田川付近は東京大空襲の翌日、焼け焦げて死んだ人の死体を積み上げたピラミッドがいくつもできた場所。
渋谷にも過去、血塗られた時代があったことを思うと、スクランブル交差点のバカ騒ぎも、今の日本が恐ろしく平和なことの証しのように思えてきたりしなかったり。スクランブル交差点を見下ろす位置に、岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」が設置されたのも、なんだか意味深な気がしてきた。





渋谷の死刑台 jailhouse rock


渋谷には刑務所があった。

 東京にある刑務所というと、日本最大の刑務所「府中刑務所」。
すでにない刑務所だと、A級戦犯が収監されていた「巣鴨プリズン」(いまの池袋サンシャイン60)。この二つは小説やドラマにときどき出てくるから、結構知られていると思う。

 こういう一般の刑務所とは別に、戦前は軍の刑務所もあった。渋谷は当時、日本帝国陸軍の一大拠点だったので、東京陸軍刑務所もあった。虎ノ門にあった徒刑場を移設したらし
い。軍の刑務所が一般の刑務所と違うのは、刑罰として囚人に軍事訓練させたり、重い砲丸を運ばせていたりしたところ。だから、代々木練兵場(今の代々木公園からNHKにかけて)の端に刑務所を建てるのはちょうどよかったのだろう。

陸軍刑務所の敷地は、NHKの南側から東急ハンズのあたりにかけて広がっていたが、1945年の終戦で陸軍刑務所は廃止されてしまった。今の渋谷区役所や渋谷公会堂、税務署、小学校などの公共施設は陸軍刑務所の跡地に建てたものだ。

 渋谷公会堂(旧
CCレモンホール)からアムウェイ・ビルの方に坂を少し下って、渋谷法務局(税務署)の角に二・二六事件の慰霊の観音像が立っている。いまだに献花が絶えない。二・二六事件で攻防があったのは永田町方面だし、慰霊碑がなんでここにあるのか不思議に思っていたが、二・二六事件の実行犯がここに収監されていたようだ。二・二六事件の裁判の判決で16人が死刑となっている。長崎のキリシタン磔刑か。(あれは26人か)
 いまはなき市ヶ谷刑務所跡地の富久町児童公園や、巣鴨プリズン跡地の東池袋中央公園には刑死者慰霊碑が立っている。慰霊碑のあたりに刑死場や絞首台があったと言われている。ということは、渋谷の二二六事件慰霊碑のあたりに死刑台があったのだろう。

 全国パワスポガイドによると
二・二六事件慰霊碑は、恋愛・婚活パワースポットなんだそうだ。慰霊碑の前で告白やプロポーズをすると成功するらしい。青年将校の霊が応援してくれるという説と、二二六で「夫婦ロック」だからという説があるそうだ。場所としては、もろ心霊スポットなんだけどな。慰霊碑の前でプロポーズの記念写真は撮らないように。ほら、後ろ、後ろ!

・・・と茶化してしまったけど、陸軍刑務所でもっと恐ろしい事件があった。終戦直前、米軍の空襲で刑務所は火災となり、収監されていた米軍捕虜62人が逃げ場を失って焼死した。戦後、
陸軍刑務所長は管理責任を問われ、BC戦犯の裁判で死刑を宣告された。刑務所の管理不行き届きだったのか、どうしようもない状況だったのかわからないが、どっちにしろ米軍は自身の空襲が原因で、自分たちの仲間を焼死させてしまったことに変わりはない。GHQがこの刑務所を戦後すぐ閉鎖したのは、そのせいなのかもしれない。

渋谷のライフル乱射魔 Guns & Shibuya





渋谷でライフルが百発以上、乱射されたことがある。

 その事件がフジテレビの「奇跡体験!アンビリーバボー」で特集されるみたいなので、先に書いておこう 来年で戦後70年になる。70年の間に渋谷で起こった大事件を三つあげろと言われたら、「東電OL殺人事件」「渋谷事件」と「少年ライフル魔事件」だと思う。少年ライフル魔事件では、渋谷で西部劇のような銃撃戦が展開されて、一般人を含む16人が負傷したそうだ。渋谷事件はギャング映画、東電OL殺人はミステリー小説と、渋谷の殺人事件はバラエティーに富んでいる。


 事件の詳細は番組かウィキペディアを見ていただくとして、個人的に気になったのは、渋谷になぜ銃砲店があったのか、というところ。
 山が近い町ならわかるけど、なぜ猟師もいないような渋谷なんかで鉄砲を売っていたんだろう。猟師向けというよりも狩猟かライフル射撃を趣味にしている人がいたってことだ。犯人は渋谷に銃砲店があることを知っていたのは、親戚か誰かが狩猟を趣味にしていたんだろう。
 狩猟や射撃をやる人が渋谷周辺にいた理由として考えられるのは、戦前の渋谷は大部分を帝国陸軍が占有していて、軍人が沢山いたこと。軍人さんなんだから射撃の練習はみんなやっていたはず。射撃の面白さを一度知ると戦争が終わっても、銃を触りたくなるんじゃないかな。あの破壊的な快感は依存性がありそう。渋谷にはベースとなる顧客がいたので銃砲店が成り立ったのだろう。松濤生まれの麻生さんもライフル射撃やるし。

 実は渋谷には今でもライフルを売っている。公園通りのパルコ前交差点から東に坂を下がったところに道に面して「渋谷銃砲火薬店」がある。前面はガラス張りで中が見える。のぞくとライフルや弾丸が並べてあるのがわかる。もちろん本物。狩猟といえば最近はジビエ、ジビエで盛り上がっているが、ジビエ料理を食べている人はライフルは人を殺せるということはすっかり忘れている。でないと美味しく食べられないだろうから。
 渋谷銃砲火薬店は、犯人が立てこもった「ロイヤル銃砲店」が陰惨な事件の後、名前を変えて続けているのかもしれない。ロイヤル銃砲店は「北谷町(今のBEAMS TOKYOの周辺」にあったそうだから、渋谷銃砲火薬店の場所とほぼ一致する。もし同じ店なら番組でお店の人にインタビューがあったりするかもしれない。

 

 

渋谷中華街化計画 Shibuya china town plan


渋谷センター街が中華街になっていたかもしれない。

 渋谷事件の記事を読んでいたら、「えーっ!」というような話が書いてあった。1946年、終戦直後の宇田川町闇市には在日台湾人の華僑総本部があり、闇市を勢力下におさめていたようで、闇市の違法物資流通を阻止したい警察と対立が激しかった。実際、闇市を見回っていた警察官がボコボコにされてしまう事態もあったようだ。

 で、華僑総本部はついに、宇田川周辺を中華街化しようと動き出した。横浜や神戸の中華街にあるような「門」を建ててしまった。台湾人は居留地のような治外法権のエリアを東京に作りたかったんじゃないか、と思う。

 現在、中華街は横浜、神戸、長崎にあるが、一番大きいのは横浜だろう。神戸や長崎は、えっ?というぐらいこじんまりとしていて、「街」というより「横丁」ぐらいの大きさ。 渋谷中華街計画は、横浜より巨大なエリアを考えていたのかもしれない。道玄坂下から宇田川町にかけて中華街にしようとしていたらしい。道玄坂下の台湾料理「麗郷」と宇田川町の「龍の髭」はもしかすると、中華街エリアの両端に位置していたのかも。でも結局は渋谷事件で台湾人武装集団は敗退し、中華街は実現せず、闇市もクリアランスされてしまった。

 横浜、神戸、長崎には中華街と比べると、渋谷中華街計画がこけてしまったのももっともだな、と思う。
 まず歴史や人口から違う。横浜も神戸も幕末あたりから中国人が住んでいたし、長崎にいたっては17世紀から中華街があった。住んでいる中国人の数も横浜6千人、神戸1万人(現在)。長崎は江戸時代には7万人もいた。
 それに対して、台湾人はかなり遅れて日本にやってきた新参の小規模集団。その上、横浜は広東省、神戸は福建省の出身他者を中心にコミュニティが出来上がっていて、台湾人は後から入り込めなかった。で、東京に自分達の拠点をつくろうと焦っていたんだろあう。
 終戦後の状況を見ても、バックの大きさが決定的に違った。横浜は中国本土から物資が大量に入ってくる。神戸は商売の上手い福建省人が物資を調達してくる。どちらも大きな港を抱えている点が渋谷に比べて圧倒的に有利。
 地元との関係も大事だったんだと思う。商港神戸の中国人は商売上手と評価されていて、地元民との関係も良好だったそうだ。横浜の中華街は新しい埋め立て地に建設されたので、土地のことで地元と衝突しなかっただろう。一方の台湾人は地元警察と敵対していたし、突然、街中を囲って中華街にしてしまおうという勝手な計画には地元からも反発があっただろう。

 渋谷中華街計画は、歴史、人、立地、バック、地元関係とあらゆる点で三大中華街に負けている。失敗どころか、出だしで一瞬に消えてしまったのは至極当然だったんだと思う。先行する広東省人や福建省人に比べると何の強みもなかった台湾人が東京に自分達の居場所を確保するには、武装して力づくでやる方法しかなかったんだと思う。
 もし渋谷中華街計画が実現していたら、センター街はもちろん、東急ハンズやPARCO、山田電気や109もなかったかもしれない。松濤は成功した華僑の豪邸が並び、ヒカリエには台湾ITベンチャーが入居してたかも。センター街付近は国内最大の中華街として観光客で賑わったかもしれない。ということは、東急電鉄は東急東横線を中華街まで直通運転する気にはならなかったろう。


渋谷センター街の黒歴史 chanese mafia, yakuza, and shibuya police



渋谷で華僑マフィアとヤクザと警察が衝突したことがあった。

 まるで往年のヤクザ映画みたいだが、ヤクザ映画が生まれる前の話。ヤクザ映画脚本のネタになったのかもしれない事件が渋谷であった。1946年だから終戦の翌年の出来事。日本に残留した台湾人武装グループ、渋谷警察署、ヤクザ(落合一家、武田組、万年東一一派の連合)の三者の抗争が起こった。後に言う渋谷事件である(ナレーション風に)。現在の宇田川交番と龍の髭と角海老個室浴場の三角形は、68年前の三者衝突の結果を語っているように感じる。

 終戦直後、宇田川町の闇市には華僑総本部が置かれていた。つまり渋谷は東京の台湾人華僑コミュニティの拠点だった。華僑総本部は闇市で飲食店をいくつか経営するかたわら、ご禁制品々(統制物資)を販売していた。(その飲食店の末裔が龍の髭と麗郷?)その上、華僑総本部が宇田川町エリアを台湾人街にしようと中華街にあるような門を建てたらしい。渋谷事件がなければ、渋谷は日本最大の中華街になっていたかもしれない。
 渋谷警察署は華僑の販売している不法な物資を没収し、ついでに屋台(不法建築家屋)をぶっ壊したが、雨後の竹の子よろしく屋台は再建され闇物資があふれた。そんなわけで渋谷警察署と華僑総本部は真っ向から敵対し、ついに闇市を通る警察官が集団暴行を受ける事態になるまで関係は悪化した。で、そこにヤクザが参入してきて話がややこしくなってくる。ヤクザはヤクザで東京の各地で在日外国人勢力(マフィア?蛇頭?)と敵対していたが、台湾人マフィアに殴りこまれて死者まで出していた。こうなると渋谷宇田川町は敵の本丸。ここでヤクザと警察の利害が一致した。
 三者の激突シーンでは、ヤクザは機関銃ぶっ放し、華僑のトラックの運転手は頭を打ち抜かれ、トラックは民家に突っ込んで炎上!ヤクザ映画顔負けどころか、これじゃギャング映画。事実は映画より危なり。詳しくは→「渋谷事件

 結局この抗争で、渋谷警察署はヤクザ連合に借りができただけだった。
 これは当時のヤクザの常套手段。警察と敵対勢力の抗争の間に入り込んで、警察に代わって(?)敵対勢力を一掃してしまう。ヤクザに借りのできた警察は、ヤクザの不法行為にお目こぼしというか、見て見ぬふりをせざるを得なくなる。渋谷事件と同じようなやり方を当時の山口組も用いた。港湾労働者と兵庫県警の抗争(レッドパージ?)の際、山口組が体を張って警察側を守った。その結果、兵庫県警は山口組に頭が上がらなくなり、その後の山口組の勢力拡大につながっている。(神戸市OBに聞いた話)
 渋谷警察署の「見て見ぬふり」もあって、ヤクザは風俗店を渋谷で開店できるようになったんじゃないか、と勝手な想像している。(実際、パチンコと同じく個室浴場も「微妙なところ」で警察から摘発されない仕組みになっている。)

 渋谷事件から数年後、東京都は闇市や屋台(露天商)の一掃を推し進めて、東京中の公道から屋台が消えてしまった。ちなみに秋葉原ではラジオ部品の露天商がラジオ会館に押し込められた。宇田川町の闇市も姿が姿を変えていったが、台湾料理店と風俗店は残った。その前に宇田川町交番がでんと構えているのは、渋谷事件の後、三者の間でなんらかの手打ち(密約)があったのではないかなとかんぐりたくもなる。
 今では渋谷警察署は渋谷から暴力団を一掃(表向き?)し、センター街の犯罪発生も減少している。性風俗もノマド化し、百軒店も大人しくなった。龍の髭が取り壊されたのは老朽化が原因だとは思うが、時代とともにこれまでの三者関係が意味をなくしてしまったんだなぁとしみじみ思う。次は角海老個室浴場ビルの番。5年以内に建て替わると予言しておく(誰でも想像つくけど)。また一つ渋谷の闇黒史が見えなくなっていく。